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排除しないとやさしくできない

排除のない世界ができるとよいなと、これまでぼんやり考えていた。私はいわゆるマイノリティと呼ばれる出自を持つ。そのため親以上の世代からは自分たちが経験してきた差別や排除の現実をよく聞かされていた。その反動で「排除(差別)のない世界を作る」ことを掲げることは耳ざわりもよく、自分の人生に「宿命」を持たせる上でも悪くないテーゼであった。

ちょうどその時、世の中では「これからの時代は対話が重要」と叫ばれていた。それは対話のない一方的なコミュニケーションは誰かを差別したり排除したりする極端なコミュニケーションに結びつきかねないからだという。

その論理的な帰結として「排除をしないこと」は対話を通じて解決されるような錯覚を抱くことになった。それは「対話」という営みを成立させるのは「やさしさ」というソフトな徳であることに疑問を持たなくなったということなのかもしれない。

だが「排除のない世界」は「やさしさ」という個人の人格らしきもので解決できると考えるのは、はたして本当だろうか。

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対話という営みは個人個人の違いをえぐり出す機能を持っている。であればこそ、対話に同質性の確認以上の機能を求めようとする場合、私たちは差異あふれるアリーナへと自分を誘わなければならなくなる。

そうして私たちの前に現れた人と人との違いは「敵」と「味方」を作ることに貢献する。結局、私たちは対話を通じて個人個人の違いを認め合った結果、やさしくする対象を選別する。

「みんな違ってみんないい」とやさしく叫ぶ人は、その人の中に存在する何かしらの基準で自らのやさしさを振りまく対象を選別している。このことから目を背けてはいけない、と思う。俗に「誰にでもやさしい人が実は一番怖い」と言われるが、これまで語ってきたことの論理的な帰結がこの迷信らしきものであることを暗示する。

やさしさと排除は不可分だが、これは差別が肯定される態度であることを意味しない。すなわちパブリックな態度としての「差別を許さない」姿勢と日常的な人間関係における「排除を伴うやさしさ」は両立してしまう。

しかし、これは個人における自己肯定の問題を惹起しかねない。やさしい自分を肯定する人にとって、実は自分が排除を同時に実行していることは受け入れ難くもある。

最近、自分で自分をいかに肯定できるかについてよく考える。他者に対していかなる振る舞いをすることが、自己肯定につながるのか。私にはまだよくわからない。やさしさと排除の問題を考えることはきっと自己肯定の問題を考えることのヒントにはなる、と信じている。

ある人がやさしいのかどうかについて、私たちはその人の行動から導き出そうとするきらいがある。だから自分の行動についてもやさしい気持ちから出てきたものなのかそうでないのか、判断しがちだ。

しかし、本当にそうだろうか。

行動からそれを支える感情を類推することは危うい推論であることを私たちは直感的に知っているのではないだろうか。やさしき価値観から導き出された行動とそうでないものを私たちは寸分の狂いなく判断できるのだろうか。

排除しているからやさしくできるということについて、意識レベルでのインプットはできるのだろう。しかし、それによって自己肯定や他者との関わりの中でどのような前向きな自らのありようを導けるのかについてはまだ判断を保留しなければならないと現時点では考えている。

完。

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