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あなたは愛国者ですか

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サムネイル画像に映された二つの石の名は「さざれ石」である。日本国歌「君が代」の中で「いわおとなる」と歌われる「あの石」だ。「さざれ石」は、細かな石灰石が長い年月を経て雨水と触れ合い、ひとつの大きな岩の塊になったものである。悠久の時をかけて小石が積み重なり、大きな岩となるさまが日本国が持つ長い歴史の象徴とされている。だからこそ、「さざれ石」が新潟縣護國神社の境内にあることは偶然ではない。新潟縣護國神社のご祭神は、「『国家の大事」に一身を捧げて殉ぜられた方々」ウェブサイトに紹介がある。戦争などの「国家の大事」のために自らの命を投げ打って行動を起こした「英霊」を祭っている。護國神社のような空間が成立するためには「国民国家」の存在が自明になっている。人が社会的な存在である以上、国家は人々の暮らしを方向づける力を持つ。自らのアイデンティティに関わる存在にどのような態度を取るのかは長らく政治学的な考察の対象となってきた。その中の一つの態度として「愛する」という態度がある。愛の対象としての国。しかし、今の時代「愛国」にどことなくアブない風味が漂うのはなぜだろう。もしかしたら私たちは「愛国」を一面的にしか捉えていないかもしれない。先述の「護國神社的な態度」のみが国を愛する姿勢としてふさわしいのだろうか。国を愛する態度がどのようなものなのか。改めて少しだけみなさんと考えてみたい。

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現在「愛国」の態度は保守や右翼といった特定の政治的立場と安易に結びつけられてしまう。振り返ってみるに2010年代前半から中盤の日本は「愛国」が持つ豊かな意味を矮小化してきた。「中立」を自称する「愛国者」たちがインターネット上を中心に活発な言論を展開し始めた。その代表的な団体が在日特権を許さない市民の会、通称:在特会だった。私は10代の多感な時期をなぜか政治に関心を持つことで過ごしていた。民族的なマイノリティとしての出自に蓋をして生きていた私は、日本では「国を愛すること」が排外的な態度と結びつくことを知った。だからこそますます私は自らの出自に蓋を閉め、逆にそのような排外主義的な態度をまとうようにした。知らず知らずのうちに「右傾化」した私は当時の息の詰まる言論空間(きっと今のネット空間もそうだ)の上澄みだけを掬って楽しむようになっていた。マジョリティに属することでしか安心感を覚えることができない柔な精神が高校生の私にはあった。「隠れ蓑」としての貧弱な「思想」を抱えて、戦前の軍事教練的香り漂う「伝統」あふれる男子校での三年間に精を出した。しかし心のどこかに「このままではいけない」といった感情を抱えて生きていたことは間違いがない。「日本人」であることのみに立脚し、自らの優位性を確保しようとする試みの欺瞞を薄々勘づいていたからだろう。

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当時、国会では平和安全法制の議論がクライマックスを迎えていた。国家をいかに守るのかについて濃厚な分断が社会の中に観察された。一方は一方を「非国民」と罵り、一方は一方を「ネトウヨ」と蔑んだ。しかし、どちらの陣営に属していても、この日本がよりよくあってほしいと考えているに違いなかった。少なくともそうあってほしかった。両者はそれぞれの意味において自らを真の「愛国者」と呼んでいた。中国や韓国、北朝鮮を敵視することが「愛国的」でもなければ、時の政権が進めようとすることすべてに反対することが「愛国的」でもないはずだった。しかし、各々の陣営には、すでに譲れない「愛国」の姿があった。その「正しい愛国」をどのように相手に承認させるかについて血眼な勝負が行われていた。

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「保守」や「右翼」それ自体にオリジナルな含意があるように、「愛国」にも特有の態度が存在する。実は「愛国」の後景には「共通善」をめぐる2000年来の豊かな議論があるのだ。ローマ時代の政治家/哲学者キケロは、人には「二つの祖国」があると捉えていた。一つは「自然的な祖国」、二つ目が「市民的な祖国」だ。前者は自らが生まれ育った環境を指し、後者は自分が市民権を持つ国のことを指す。前者と後者が一致している人もいれば、移住などで一致してない人もいるだろう。キケロは特に後者における共通善を追求する態度として「愛国」を捉えていた。この意味であらゆる人が「愛国者」になる素養があると私は思う。矮小化された意味の「愛国」が特定の政治思想に深く根ざしているかのように見えるからこそ、「私は国を愛しています」といった主張が人口に膾炙しづらくなっているのだろう。今こそ「愛国」が持つ豊かな態度を思い起こす必要がある。「愛国」は自らのネイション(国民、民族)の独自性にこだわる態度のみを指すのではない。(このような態度はしばしば「ナショナリズム」と呼ばれる)逆に反体制的立場だけにこだわるわけでもない。国を愛することは自らの立場こそが国家に対する唯一正当な態度として主張することではないはずである。このように考えると国を愛することの難しさが浮かび上がる。盲目的な態度を取るのでも、欠点のみに固執し修正を迫るのでも、愛国的だと胸を張るには不十分なのだろう。あなたは愛国者なのだろうか。


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