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残すべき記憶とは何か

新潟県は北朝鮮との関わり合いが非常に深い土地だ。横田めぐみさんをはじめとする複数の拉致事件が発生したのも新潟県。日朝の交流が活発だった時代、新潟と北朝鮮の間には不定期ながら旅客・貨物船(『万景峰号』)も就航していた。

今年5月、私は新潟県を訪れた。今でも新潟県に濃厚に残っているであろう北朝鮮との関わり合いを巡ろうと考えたからだった。結果的に今回の訪問は「残すべき記憶とは何か」という壮大な問いを喚起させるものとなった。どういうことか。今回はそんな話をしたい。

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新潟駅から新潟港方面に15分ほど歩くと「ボトナム通り」と呼ばれる通りが現れる。「ボトナム」とは朝鮮語で「柳」を意味する。いきなりなぜ朝鮮語由来の通り名が出てくるのか。それは新潟港でかつてあった歴史と密接に関わる。

敗戦後、日本に残された朝鮮半島出身者は民族的差別や経済的困窮に苦しんでいた。しかし、日本にとって在日コリアンは治安維持や福祉負担の観点から社会の「厄介者」だった。

一方、同時期の北朝鮮は大韓民国との熾烈な体制競争を行なっていた。北朝鮮にとって在日コリアンを自国に呼び寄せることは自国が韓国よりも優れた社会・政治体制であることを示せる格好の対象だった。ここに奇妙な日朝の利害の一致が発生し、いわゆる「北朝鮮帰国事業」が始まった。

1960年代の北朝鮮は社会主義原理の元で一定程度の経済的発展が続いた。そのこともあり「地上の楽園」と宣伝された「祖国」のプロパガンダを信じ、在日コリアンは建国まもない新興の社会主義国に希望を託した。

その初回の帰国船出発を記念して、柳の木を植えたことに由来し「ボトナム」通りは生まれた。

私の祖母もまた、親しい友人が北朝鮮へと旅立つのを新潟港まで見送ったという。今ではその話を詳しく聞きたいと思うが、高校生の私にはその話を受け入れる度量も思想もなかった。今では祖母は黄泉にいる。かえすがえす残念だ。

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「北朝鮮帰国事業」は人工的に発生した人口移動の中では類を見ない規模だ。日本と朝鮮半島の歴史の中でも特筆すべき事象であることは間違いない。しかし、それでも世紀の人口移動の記憶は新潟の地から徐々に力強く消えようとしている。

新潟港前の竜ヶ崎交差点には第一回帰国事業の開催を記録する記念碑が立っている。その横に立つ解説カンバンに刻まれた文字の劣化からは何者かによって記憶を消すことへの力強い意志を感じる。

一文字一文字を消そうとする意思、カンバン全体を覆う大きなバッテンじるしのキズ。これを自然劣化の中で発生したものだと片付けることはできない。しかし、誰かの悪意がそうさせたのだという証拠も私のほうでは持ち合わせていない。

それでもこのカンバンの傷からは「この記憶は残さなくてよい」と断罪する声が聞こえるようだった。朝鮮半島をめぐる研究を続けていると誰かの悪意を想像せねばならぬ瞬間に出会う場面がしばしばある。いわば「職業病」なのかもしれない。

しかし、果たして帰国事業をめぐる記憶を消そうとすることは、「悪意に満ちており」「イケナイこと」なのだろうか。そうだ。私は北朝鮮を研究しているから北朝鮮をめぐる記憶を残されるべき記憶だと勝手に考えている。それでもこの主張を正当化する根拠は必ずしも自明ではないはずだ。

北朝鮮という「ヒドい国」に関する記憶など日本に残さないほうがよい。北朝鮮と交流があったなんて「恥ずかしい歴史」だ。そんな真っ向からの主張が想定できる。

「なぜその記憶は残されるべきなのですか」
「なぜでしょう…」
「エセリベラルの偽善なのではないですか?」
「グヌヌヌ….」

北朝鮮という「非人道的な国」に関する記憶など日本に残さないほうがよいと言われた時、私はどのように答えたらいいのだろうか。

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今を生きる人間が後世に何を託したいと考えるのか、その価値判断の積み重ねこそが記憶だ。言い換えれば、永遠の現実の中に記憶は積み重なる。歴史が過去の事実に対する解釈の総称なのだとすれば、記憶はその解釈を今に現在の中で常に再構成し続けることに他ならない。

もちろんあらゆる記憶を永遠に保管することなど不可能だろう。体験の仕方が個人個人違う以上、記憶も千差万別となる。それらすべてを掬い取り、誰にでも見える形で保管することは難しい。社会の中で誰にも気づかれず沈殿し消えていった記憶が無数にある。だからこそ私たちが今ここで取り扱おうとしているのはすべての記憶ではない。「残すべきとされた記憶」のみだ。

この限界に直面する時、私たちは「残すべき記憶」を判断する権利/正当性がある者は誰なのかという問いにぶつかる。「この記憶は残しておくべきだ」「この記憶は残さなくてよいのだ」と判断するのは誰だろう。

記憶の仕方は千差万別だが、記憶をしていることそれ自体は、社会を構成する構成員の共通点だ。だから集団は記憶を媒介にしてつながることができる。この現世的/統治的なメリットを時の権力者はめざとく発見し、記憶を利用してきた。北朝鮮指導部はその典型である。そこに政治思想的な断裂や現実世界の変動、多様な人間集団の存在を重ね合わせるとき、集団による記憶は複層的になる。つまり私たちの記憶は複線的なものであってよい。

「記憶する」はつながり方の一つだ。それも性質の異なる複数の立場を自らの記憶として隠し持っておいてよい。記憶は過去に起きたことについて、今を生きる他者との関係性から再構成し続けることだからだ。だから記憶は変わりうる。変化する記憶のうちの一類型が「風化」だろう。

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すべての歴史の当事者が記憶の風化を恐れている。それは風化することで自らの記憶が過去に閉じ込められることを恐れるからだ。だからこそよくある「まず知ることから始めよう」という提案は記憶の性質から考えれば、まさしく本筋だ。(だからこそあまりに教科書的すぎて辟易される側面もあるのだろう)記憶は過去について「考えた」ことではない。記憶は過去について「考える」ことなのだ。

帰りのタクシーの運転手は記念碑のことを何も知らなかった。しかし、それは希望ではないが、絶望でもない。彼自身にはおそらく彼自身が大切と考える記憶がある。それだけのことだ。これまで考えてきた「記憶」というものの性質を考える時、彼は私と交わした帰国事業に関するいくつかの言葉をきっかけにイマココから「記憶する」ことができる。

完。

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