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一番がいい

と、思う。なんでも。

恋人でも、友人でも、自分が好きな人たちに「私、あなたのことが一番好きだよ」と言われたら誰だって嬉しいと勝手に思っている。私は嬉しい。好きな人にとっての一番が私なんて、そんなに嬉しいことはないだろうと思う。漫画の一コマの「興味のない人に向けられる好意ほど気持ち悪いものってないでしょう」みたいな台詞をTwitterで何度も見たことがあるけれど、興味のない人でもある程度の好意であれば私は嬉しい。ある程度なら。

なんとなく今まで私の中では、恋愛と友情の"好き"の違いは"その人にとっての一番でありたいか"だと思っていたのだけど、よくよく考えてみたら、友人にとっての一番だって嬉しい(わざわざ言わないよとか言うツッコミは今はなし)。「うーん、二番目かな」なんて言われたら嫌だよ。

と、ここまで書いてみて思ったけれど、嬉しいのは当たり前であって、肝心なのは"絶対に"その人にとっての一番がいいかだと思う。私は数少ない友人の中で「誰が一番好きか」を考えたことがないし、きっとそういう人がほとんどなのではと思う。友人に、自分のことを一番好きかなんて、確かめないのが普通だ。きっとそこだ。核心はそこにある。

先日、三浦しをんさんの『きみはポラリス』を再読した。帯に"最強の恋愛小説集"と書いてあったので、本棚からなんとなく手に取った。何年か経って再読したら感じ方も変わるのかなとか、愛の答えが書いてあるかな、なんて思った。

"恵理花と勇人が自転車や秘密基地とちがうのは、二人が思い出のなかの宝ではない、ということだ。俺が一方的に大切だと感じるだけではなく、俺のことを大切だと感じてほしいと、願ってもかまわない存在だということだ。(中略)「愛」ってのは、「現在進行形で大切」ってことだったんだなあと、俺は埃くさい倉庫のなかで思った。"
『きみほポラリス』(裏切らないこと)/三浦しをん

結論愛の答えはわからない。愛って、幅広いものね。友人に対する気持ちも、家族に対する気持ちも、愛だもの。私が今思い浮かべる人に対しては、私のことを大切だと感じてほしいと願ってもいい、はず。大切だと思っていてほしい。

先日、飼い猫が亡くなったけれど、それでも現在進行形で大切だし、今もこの文章を書いているだけで涙が出てくる。私は本当に友人が少ないし、年々減っている気がするから、今親しくしてくれている人のことが勿論現在進行形で大切だし、これは愛だなと思った。

でも欲を言えば、一番になりたい。ただ一番であり続けるというのは不安が付きものであり、そうやって欲張りになって、がめつくなる自分が嫌でもある。やっぱり欲張りになると人は醜くなるのかなと思う。でも今そうなっているということは、私は恋をしているんだろうな〜と思う。嫌な女になりたくない。このnoteは一人で家で酔っ払って書いているので、時間が経ったときに読み返して恥ずかしくなって消すかもしれません。だめだめです。

私は「落ち着いてるね」と言われがちだけれど、本当はダメダメだし、そんな自分をわかった上で誰かに愛してほしいと心の底でずっと思っている。私と親しい人は、私のダメダメなところをわかってくれているから安心する。恋じゃなくて、私が求めているのは愛なのだ。上っ面な「可愛い」じゃなくて、心の底からの愛が欲しいよ。

#エッセイ #コラム #日記

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