先生、その俳句の「切れ」はそうじゃありません

この記事は「言語学な人々 Advent Calendar 2021」の4日目の記事として書かれました。

はじめに

俳句を始めた。2020年、高3の夏だった。
高2までは理系の文化部だったけれど、うちの高校にそもそも部活と呼べるほどの活動実態のある文芸の部活はほぼなく、俳句部なんてもってのほか。校内に特に仲間もいない中、ひとりで始めた、ある意味趣味らしい趣味だった。
校内に仲間がいないと書いたけど、本当はその頃、校内にもほとんどいられなかった。少なくとも、当時の僕が期待(依存?)していたよりは。言わずと知れたコロナ禍で、高校や塾は分散登校から徐々に類のないほぼ全面オンラインの学習指導に移行し始めた。誰もが手探りで、でもやるしかないから前に進む、そんな時期だった。

その「でも」が、僕にはなんだかどうしてもできなかった。ずっと同じ景色の自室に篭って、たまに体を鈍らせないように駅前を散歩して帰ってくる、そこから広がりも広げられもしない世界にうんざりし、あてられていた。
同級生は度重なる自宅学習に参ったといいつつも、なんだかんだ、ZoomやGoogle Classroom、Microsoft Teamsといった飛び飛びのプラットフォームで配信されるオンライン教材をそつなくこなしていた。自分だけがベランダのない窓の景色に閉ざされて、置いていかれているようだった。

じりじりと網戸を登る蟬の腹
連作20句「いちばん深い青」

自分が進んでいくことはできなくても、進んでいくものに追いついていくことはできなくても――進んでいくものに名前をつけて、覚えておくことはできると思った。
そのときまで僕には、絵にしろ、音楽にしろ、文章にしろ、なにか一定のフォーマットに従って、見たもの・感じたもの・思ったものを、こうすれば刻んでおくことができる、そんな拠り所がなかった。何かを「つくる」ことができなかった、いや、してこなかった。自分がこれまで無視してきた「創造する」ということは、自分が浴びるように経験し、自分からやがて過ぎ去ってしまう、そんな何かを大切に覚えておくための手段でもあったのだと、痛感した。

絵や音楽は地道に努力できる自信がなかったし、文章なら道具も特段いらずに書けると思った。文章は文章でも、短い定型詩がいいと思った。定型なら、勉強らしい勉強をすればそれらしくものを書く眼を養えそうだと思ったし、長い文を書くのは、文章量を埋めるために変な表現を膨らます自分の悪い癖が出てしまうと思った。
短歌でなく俳句にしたのもそういうわけだった。いい短歌を読むと、まずその世界観に驚かされる。虚と実の世界をうまく折り込むストーリーテリングの技法、そう感じた。いま目の前の世界を描くのにもてこずる人間が、新しく世界をつくって描くのは無理だと思った。
目の前を写生して描く。一語一語のもつ力を信じて、飾らず仕立てる。そんな俳句が、自分にはいちばん性に合っていた。

俳句の技巧的な構造・作り方を勉強してみて、いろいろなことに気づいた。ぐだぐだ説明せずに、ひとつひとつの言葉の効果を考えること。意外な言葉の組み合わせで、さまざまな余情・舞台効果を演出できること。日常には、あんがい身近なところに季語があふれていること(もっとも、これは逆で、季節に合わせていろいろ身近なものが季語に加えられているのである)。

そして、いままで俳句について学校の国語で習ってわかっていたつもりのことが、かなり勘違いだらけだったことだ。
たとえば、ふつう俳句を活字で読むときは、3行に分けて書いたりしないし、5・7・5の間にスペースも入れない。今思えば、小さいころ本で読んだ俳句がだいたい分かち書きしてあったのは、音読が苦手な子どもに5・7・5のリズムをわかりやすく示すためだったのだろう。でもそんなこと、知らなかった。3行に分けて書けば「俳句っぽくなる」「格式高くなる」とすら思っていた。基本の基本のところで勘違いしていたわけである。

しかし最近、ネットや書店でいろいろな教材を調べているうちに、国語を授業で教えていらっしゃる先生ですら、こういったことを知らずに教えている方も、少なくないのではないかと思うようになってきた。掲載する例句すべてにこれでもかというほどスペースが入っている教材が、あまりに、あまりに多すぎる。それだけならまだいいが、そういう教材に限って、基本的な部分に誤りに近いような説明が多いのである。

たとえば、小学館刊行の学習まんが「ドラえもんの国語おもしろ攻略 俳句・短歌がわかる」。575、季語などの俳句の規則を紹介した後に、のび太がこのような “俳句” を詠むシーンがある。

うたうたう
ジャイアンには
こおりつく
「ドラえもんの国語おもしろ攻略 俳句・短歌がわかる」

これならば五七五も守っているし、「こおり」という季語も入っているね、とのび太がちょける描写である。こんな風に、のび太がドラえもんの説明を曲解・言葉尻を捉えるような間違い/シャレを言い、ドラえもんが呆れ顔で訂正する、という流れはこの学習マンガシリーズではよくあることだ。ところが、この本ではそういった訂正が一切なされず、次の章に移ってしまったのだった。

この “句” の問題点は(3行で表記されていることを除いて)2点ある。
ひとつめ、そもそも五七五が守れていないこと。俳句における五七五は「文字数」ではなく「音数」、いわゆるモーラ数で数える。「ジャイアン」の「ジャ」はかな表記では2文字だが、モーラでは1拍、1音と数えられる。つまりこの句は5・6・5で、音数が足りない字足らずの句なのである。
ふたつめ、季語が入っていないこと。歳時記で調べると、確かに「氷」「凍る」は冬の季語に含まれるが、この句の「こおり」は「凍りつく」=「人が緊張・恐怖でこわばる」という比喩・慣用表現の一部であって、季節を描写した情景ではない。季語を比喩表現の一部に組み込んでしまい、「これでは季語にならない」と指摘されるのは、初心者がよくやりがちなミスの一つである。

まあもちろん、小学生対象の学習まんがにそこまでの説明を求めるのは酷だと思う。
しかし、ツッコミなしに例句として取り上げるには問題のある句ということに変わりはないだろう。

いま挙げたのは極端な例だが、他にも多くの教材が誤りに近い解説を載せていると思われる概念に、表題にもなっている俳句の「切れ」と「切れ字」がある。

俳句の「切れ」とは?「句切れ」との違いは?

教科書などでは、俳句における「切れ」は和歌と同じく「句切れ」という用語で呼ばれ、「一句の中に作られる意味や調子の切れ目」と解説されることが多い。

ベネッセの「定期テスト対策 中学国語」というサイトでは、さまざまな国語に関するよくある質問集への回答がQ&A形式で掲載されている。「俳句の句切れがわかりません」という想定質問に対する回答例が以下である。

句切れの呼び方は,切れ字(「や」「かな」「けり」など)や言い切りの表現の含まれる句がどこかで決まります。

俳句は5・7・5で構成され,それぞれ初めから「初句(一句)」「二句」「三句(結句)」と呼びます。
○○○○○ ○○○○○○○ ○○○○○
 ↑初句(一句) ↑二句   ↑三句(結句)

初句の最後に切れ字や言い切りの表現が含まれ,初句の後で区切れる句を「初句切れ」
二句の最後に切れ字や言い切りの表現が含まれ,二句の後で区切れる句を「二句切れ」
三句の最後に切れ字や言い切りの表現が含まれるか,切れ字や言い切りの表現がない句を「句切れなし」といいます。


(例)
 夕顔や ひらきかかりて 襞(ひだ)深く(杉田 久女) →初句切れ
 草山に 馬放ちけり 秋の空(夏目 漱石)       →二句切れ
 とつぷりと 後ろ暮れゐし 焚火かな(松本 たかし)  →句切れなし

俳句の場合は,二句の途中に切れ字や言い切りの表現が使われることがあります。このようなものを「中間切れ」といいます。
「中学国語 定期テスト対策【短歌・俳句】 俳句の句切れ」

ひとつずつ、個人的感想も含め補足していこう。

教科書にしか載ってない俳句用語

俳句は5・7・5で構成され,それぞれ初めから「初句(一句)」「二句」「三句(結句)」と呼びます。

僕は「上五」「中七」「下五」と呼んでいるし、持っている本にはだいたいこう書いてある。逆に国語と名のつく教科書・参考書以外で「初句」「二句」「三句」と書いてある俳句の本を寡聞にして存じ上げないので、さしずめ「教科書に載ってない」ならぬ「教科書にしか載ってない」といったところか。そういう文献があればご教示願いたい。

その句は「句切れなし」じゃない!

初句の最後に切れ字や言い切りの表現が含まれ,初句の後で区切れる句を「初句切れ」
二句の最後に切れ字や言い切りの表現が含まれ,二句の後で区切れる句を「二句切れ」
三句の最後に切れ字や言い切りの表現が含まれるか,切れ字や言い切りの表現がない句を「句切れなし」といいます。

こちらも同様の理由で、いずれも教科書以外では見たことのない表現である。強いて名前をつけて分類するならば、「上五の切れ」「中七の切れ」「下五の切れ」「切れなし」とでも呼ぼうか。いずれにせよ、一句がどこで切れているかを分類する確立された呼び方はないように思える。
このなかで一番文句をつけたいのは「句切れなし」という呼び方である。和歌・短歌は一首31音と長いため、31音の長い調子を途中で切るもののみを「句切れ」と分類するようだが、短い一句の中で独立した世界観を確立することを重視する俳句では、一句の末尾の「切れ」、いわゆる言い切りの有無が大きな影響を及ぼす。
ところがこの呼び方では、句末に言い切り・体言止め・切れ字などがあって下五で切れる句と、下五にも切れがない「切れなし」の句が同一視されてしまう。例句に示されているたかし句は、下五が切れ字「かな」で切れる句だ。切れがない句の例には、山口誓子「ピストルがプールの硬き面(も)にひびき」などがある。

「中間切れ」?「句またがり」?

俳句の場合は,二句の途中に切れ字や言い切りの表現が使われることがあります。このようなものを「中間切れ」といいます。

これも「句またがり」と呼ぶのがより一般的ではないだろうか。「中間切れ」という用語を採用している俳句の本には、佐藤文香「俳句で遊べ!」があったが、これも「句またがり」と併記されており、やはり「句またがり」が多数派であるようだ。
「句またがり」は一般に五七五の音数のまとまりの切れ目と意味のまとまりの切れ目が一致しないことを指して呼び、「中七の途中が切れる」という風に決まっているわけではない。上五や下五の途中に切れが入る句には、西東三鬼「算術の少年しのび泣けり夏」などがある。
また、短歌にも「句またがり」は存在する。特に近現代の歌に顕著で、塚本邦雄「花伝書のをはりの花の褐色にひらき脚もていだかるるチェロ」などが例に挙げられる。
なお、俳句よりも一文が長い短歌では、しばしば「意味のまとまった1フレーズが音数のまとまりの切れ目をまたいで存在する」状態と、「音数のまとまりを意味のまとまりが途中で切っている」状態を区別した用語で呼ぶようである。これを区別する場合、「句またがり」は特に前者を指し、後者は「句割れ」と呼ばれる。塚本の歌を例に挙げれば、「褐色にひらき」が三句(五音)と四句(七音)の間にまたがるのが「句またがり」、「〜ひらき」と「脚もて〜」の意味的な切れ目が四句(七音)の途中にあるのが「句割れ」の例である。
このようにさまざまな用語で説明されるが、起こっている現象に大きな違いはなく、五七五七七(五七五)の音のまとまりに縛られることなく、合計31音(17音)全体の中で意味のまとまりを再構成する技法であることに変わりはない。

「切れ字」とは?「感動の中心」で感動するのは誰か?

少々話が脱線したが、ここまでは大きく、用語の呼び方に関する相違であり、誤りとは言い難いかもしれない。問題は次、「切れ字」に関する扱いである。

教科書などでは、切れ字は「内容や意味を中途で切る働きをする特別な語」であり、「感動の中心を示す」「余情を持たせる」「直前の内容を詠嘆・強調する」効果がある、などと解説される。

先ほどと同じ、ベネッセの解説サイトを見てみよう。「切れ字がどのようなものなのかわかりません。切れ字があることは句切れには関係しますか。」という実によい想定質問に対して、以下のような回答例が掲載されている。

「切れ字のある場所」=「句切れ」と考えてください。俳句の句切れを見つけるためには切れ字を覚える必要があります。

切れ字を使って文を切断することで,そこに読者の注目を集め,余情(あとあとまで心に残る感動)を誘います。ですので,句切れのある場所が作者のもっとも強調したいところ(=感動の中心)であると考えられます。

切れ字は「切字十八箇条」(「かな」「もがな」「ぞ」「か」「や」「よ」「けり」「ず」「じ」「ぬ」「つ」「らむ」「け」「せ」「へ」「れ」「し」「いかに」)が有名です。切字十八箇条をすべて覚えるのは大変なので,このなかでも有名な「ぞ・や・かな・けり」は少なくとも覚えるようにしましょう。
「中学国語 定期テスト対策【短歌・俳句】 俳句の切れ字」

ひとつひとつ見ていこう。

「切れ字」と「切れ」は等価ではない

「切れ字のある場所」=「句切れ」と考えてください。俳句の句切れを見つけるためには切れ字を覚える必要があります。

最も問題のある記述。俳句における「切れ」は切れ字のある場所のみに発生するわけではないし、切れ字に見える語であっても切れを作らないことがある。そもそも、先述の「俳句の句切れ」の説明では、ベネッセは「切れ字や言い切りの表現」がある箇所に句切れがあると説明していたが、これらは互いに矛盾する記述であり、一貫性がない。
もちろん、「句切れを見つけるためには切れ字を覚える必要」などない。特に後述するように、18もの切れ字をむやみに覚えることなどもってのほかである。

これに関しては、芭蕉も

第一は切字を入る句は句を切ため也。きれたる句は字を以て切るに不及。いまだ句の切レる不切を不知作者の為に、先達而切字の數を定らる。此定の字を入ては十に七八はおのづから句切る也。残り二三は入レて不切句又入れずして切る句有り。此故に或は此やは口合のや、此しは過去のしにて不切。
[…]きれ字に用時は四十八字皆切レ字也。不用時は一字もきれじなしと也。
「去来抄」

と言ったと伝えられている。
芭蕉の句を例にとれば、「いでや我よきぬのきたりせみごろも」という句があるが、この「や」は句の調子を「あれよ」と整える「口合のや」であり、この「や」の直後では句は切れない。同じく例えば「衰ひや歯に喰ひ当てし海苔の砂」の「し」も、切れ字十八箇条に含まれる形容詞終止形活用語尾の「し」ではなく過去の「き」の連体形の「し」であるから、ここでも句は切れない。
また、「桐の木に鶉鳴くなる塀の内」では、「桐の木」と「鶉鳴くなる塀の内」という心を隔てた二つの世界を「に」が軽く切ってつないでおり、切れ字とされない「に」が切れにあたるのだと『芭蕉翁二十五箇条』では述べられている。このように、蕉門俳諧の教えでは、切れ字が入っているか否かの表面的基準ではなく、意味・文法の両面から「句を切れさせようとしているか」が切れの有無の判断基準として重視されていたことがわかる。

また、近現代では、石田波郷「大阪城ベッドの足にある春暁」や、高浜虚子「遠山に日の当りたる枯野かな」のように、切れ字となりうる助詞や活用語の終止形をもたずに名詞や連体形のあとで切れる多様な切り方の句が生まれてきた。これらの句も、「俳句は切れ字のある場所で切れる」という安易な読解テクニックに対する警句となるだろう。

切れ字を使って文を切断することで,そこに読者の注目を集め,余情(あとあとまで心に残る感動)を誘います。

この文はうまく書いてあると思う。切れ字の効果に関して、英語版Wikipediaでは、

When it is placed at the end of the final phrase (i.e. the end of the verse), the kireji draws the reader back to the beginning, initiating a circular pattern. [...] Placed elsewhere in the verse, a kireji performs the paradoxical function of both cutting and joining; it not only cuts the ku into two parts, but also establishes a correspondence between the two images it separates, implying that the latter represents the poetic essence [...] of the former, creating two centres and often generating an implicit comparison, equation, or contrast between the two separate elements.
Kireji - From Wikipedia, the free encyclopedia

とある(強調は僕)。つまり、特別な語で句に強い切れを提示し強制的に短い休止をつくることで、新たに完結されたその部分の情景を想像し、余韻を感じる「隙」を読者に与えるのが切れ字のはたらきであるといえる。これを端的に「強調する」「詠嘆する」「余情を生む」と表現しているのが多くの教科書である。

本当に「作者が」「最も」か?

ですので,句切れのある場所が作者のもっとも強調したいところ(=感動の中心)であると考えられます。

この帰結がまずいと感じる。「感動の中心」というフレーズを、一句に一つだけある「要旨」のように思わせる記述もさることながら、「作者の」という主語を置いている部分が好ましくない。これ以外にも、「作者が感動した点」「作者が伝えたいと思った点」「作者の気持ちがこもっている点」などという風に「感動の中心」を解説する教材は多いが、切れ字のある箇所はあくまで作者が読者に「余韻を感じさせよう」「感動をもたらそう」としている部分と捉えるのが自然であろうと思う。切れによって生じた間で感動しうるのは作者よりも、むしろその句を読んでいる読者なのである。

切れ字がもたらす効果は作者よりも読者に向けたものである、という視点が抜け落ちると、たとえばこんな極端な理解を生んでしまうこともある。Yahoo!知恵袋におけるある質問に対する回答で、ベストアンサーに選ばれたものである。

切れ字とは、そこが一番感動したポイントですよ、という俳人の印です。
 そこで一度俳句は切れます。だから切れ字ですね。
 切れ字は18種類あります。これは丸暗記したほうが早いです。
 
 俳句は五・七・五で構成される定型詩です。
 どこに切れ字が入るか(どこで句が切られるか)を句切れと呼びます。
 
 最初の五文字で句が切られることを 初句切れ
 二つ目の七文字で句が切られることを 二句切れ
 最後の五文字に切れ字があってももう俳句は終わりますから句は切られていません 句切れなし
 
 
 古池や/蛙飛び込む/水の音
 
 これは「や」が切れ字です。
 「古池や」は最初の句切れなので、初句切れですね。
 
 つまりこれを現代語に訳すと
 
 古池だ!! キャァッホオォォォウ!!! スッテキィィィィ!!!!
 カエルが水に飛び込む音が聞こえるぐらい静かなところがステキだよ…。
 
 という感じで、古池にめちゃめちゃ感動した、という意味ですね。
Yahoo!知恵袋「すいません。 国語の何句切れとか切れ字とかありますよね?
何回教科書を呼んでも理解し難いのですが、 バカにでもわかるように教えてくれませんか? 」

前半部分に対する指摘はこれまでの記述ですでに済ませてあるので割愛しよう。問題なのは後半部分、「古池や」の句の解釈だ。これでは芭蕉はそこらじゅうの池に興奮する異常者である。もっとも、川柳の古句にはこうした「解釈」を踏まえた「芭蕉翁ぼちやんといふと立ち止まり」という句があるわけだが、これはそういう極端な解釈とわかっているからこそ面白みを生んでいるわけだ。

しかし、文字通りこのように「昔の奴らはつまらん人生送ってたから恋だの古池だのにいちいち感動してたんだなあ」と早合点して中高の国語を修了した生徒・学生は悲しからずや少なくないのではないかと思う。

そもそも、この句の成立過程に、芭蕉が「蛙飛び込む水の音」という12音のフレーズを思い立ち、弟子の其角が「山吹や」とつけて一句にすることを進言したが、芭蕉がこれを退けて「古池や」とした、という伝説は有名である。仮にその説を知らずとも、芭蕉が出会い深く感じ入った、そのたったひとつの「古池」がなければこの句は生まれえなかった、と考えるのはあまりに早計であろう。
そのような大きな感動を託すには、「古池」という一般名詞はそれ単体ではあまりに限定に乏しすぎる効果しか持ちえない。さびれて静かな「古池」の様子が切れ字「や」のもたらす終止によって読者に思い描かれ、そこに響く「水の音」と対比されることによって初めて、この句は鑑賞に値する詩情を持ちうるのである。

切れ字は数えきれるものか?

切れ字は「切字十八箇条」(「かな」「もがな」「ぞ」「か」「や」「よ」「けり」「ず」「じ」「ぬ」「つ」「らむ」「け」「せ」「へ」「れ」「し」「いかに」)が有名です。切字十八箇条をすべて覚えるのは大変なので,このなかでも有名な「ぞ・や・かな・けり」は少なくとも覚えるようにしましょう。

「切字十八箇条」とは、連歌・俳諧の時代から句を切るために用いられた代表的な切れ字を集めたものであるが、芭蕉の言葉にもある通り、これらを形式的に覚えてその有無によって切れを判断することにさほど意味はない。また、動詞命令形の活用語尾にあたる「け」「せ」「へ」「れ」や形容詞終止形の活用語尾にあたる「し」は合わせて「活用語の言い切りの形」とまとめられるなど、覚え方としては洗練されていない点も多い。
そもそもこれらは、その時代に好まれた「切れ」の作り方であり、それぞれの時代ではまた異なった「切れ」の作り方が生まれ廃れていくのが必然である。もちろん、「や」「かな」「けり」など現代でも盛んに用いられる切れ字はあるが、それぞれの詳細な用例・例句の解説なしに、切れ字をいくつも列挙して説明することに意義は感じられない。

「切れ」の読解の提案

ここまで散々既存の理論に対する批判を並べてきたが、最後に僕が支持する切れ・切字論を紹介して終わろうと思う。

佐藤郁良は著書「俳句のための文語文法入門」で、俳句における切れのはたらきを大きく「句中に意味上の断絶があることを表す働き」「詠嘆の意味を添えて句を締めくくるはたらき」に二分したうえで、前者のはたらきを持つ「狭義の『切れ』」をもたらすのは、活用語の終止形や終助詞・間投助詞に代表される文法的に一文の終止を表す表現に加えて、文法的に連続でも内容的に明らかな場面転換・断絶を認められる「読解上の切れ」があるとした。

また、夏井いつきは「切れのない俳句」について、

動詞・形容動詞・形容詞・助動詞の終止形も「切れ」を作る。9月号のワタクシの『放歌高吟』の句を例にとると・・

  緋目高の水に太陽身ご[も?]れり
  踏むに長く摘むに太き蚯蚓なり

これらは、下五の終止形が「切れ」を作る。[…]

  藻の花が咲いたよ朝が生まれたよ

この句は、「や」に類する間投助詞「よ」が二箇所の「切れ」を作り、リフレインの効果を作る。

  虹目高(グッピー)の向こうに夜の観覧車
  水槽のごとく真夏の夜の地下鉄

これらは、下五名詞止めにて、ここに「切れ」がある!
夏井いつきの100年俳句日記「『切れのない俳句』とは?」2008.09.02

と述べ、文法的な構造に基づく切れの分類のもと、句末の切れの存在、名詞の言い切り(体言止め)によって生じる切れの存在を強調している。

以上のような論を踏まえて、僕は「句末の切れ」を「切れ」に含めたうえで、「切れ」に「意味上の切れ」「文法上の切れ」の二面性を認める解釈を採用している。

たとえば、佐藤鬼望「星飛べり空に淵瀬のあるごとく」と山口青邨「星流る疑ふこともなく生きて」はともに上五で文法的に切れて、句末に切れがないという共通点がある。しかし青邨句には同じ箇所に「意味上の切れ」が重なっている一方、鬼望句は内容は切れの前後で連続している、といった具合に。

もちろん逆に、文法的に連続なことが共通していても、季語を挟んで意味上の切れがある句とない句、というような例もある。遠藤若狭男「恋人は見ざりしといふ流れ星」と玉川鴦鳴「星飛んで漁火一つなかりけり」などがそれだ。鴦鳴句は「星飛んで」の接続助詞「で」の前後で意味が切れて、若狭男句に意味上の切れはない。一方、体言止めと切れ字「けり」で句末の切れが両方に存在することは二句の共通点だ。

また、これを書きながら整理していて発見したが、文法的な文節同士のつながり方(文節の終わりの語の品詞)を分類することで、ある程度「意味上の切れ」の生じやすさの目安をスペクトラムに示すことができるように思う。例えば、こんな具合に。

終助詞≧間投助詞≧活用語の命令形≧活用語の終止形(係結び含む)>名詞>接続助詞>活用語の連用形≧活用語の連体形>格助詞(>接続詞≧副詞≧連体詞>副助詞≧係助詞>感動詞)

つまり、終助詞や間投助詞(切れ字「や」「かな」を含む)で終わる文節の前後では意味上も文法上も強く切れやすく、前後の内容に特殊な対応関係がなければ「意味上の切れ」のない連続した印象を作ることは難しい。
反対に、連体形や格助詞で終わる文節の前後では、意味上も文法上も連続した内容になることが多く、前後の内容に大きな乖離がないと「意味上の切れ」を感じさせる余情を生むことは難しい、というわけだ。

おわりに

かなり勢いで書き切ってしまったので終わり方がわからなくなってしまった。雑な議論・誤りなどがあればぜひご指摘をいただきたい。

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