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20221118

 この世の中が、どのくらい安全で、どのくらい危険なのか、全くわからないし、誰も教えてくれない。
 そんなのは当たり前だ、と言われるかもしれないけれど、でもみんな何となく、自分は安全だと思い、ここは安心だと思い、このくらいは大丈夫と思い、生活をしているじゃないか。その基準はどこから得たものなのだろう。
 いつも恐怖に耳を澄ませ、目を凝らしている。疲弊した日々。

 水曜日、十時二十分に近所のコンビニで義父(というのは私にとってで、夫にとってはお父さん)と待ち合わせて、夫は病院へ向かった。手術はだいたい三十分くらいかかったらしい。思っていたより平気そうな姿で帰ってきた。朝食を抜いていたのでお腹が減っていると言う。昼はベーコンとキャベツのパスタ。
 十四時頃、麻酔が切れてきたのか少し痛むようなので早めに頓服を飲む。一緒に処方された胃薬も飲む。おやつにはプリンを食べる。薬のおかげか痛みはほとんどないまま夜を迎える。シャワーも今夜は駄目なので、汗拭きシートで体を拭いて、パジャマに着替える。
 木曜日、相変わらず痛みもなく、消毒のために病院へ。今日は自分で運転していき、終わったらそのまま仕事へ。特に問題はなく、一週間後に抜糸の予定。白いガーゼのような絆創膏から、肌色のテープのようなものに変わり、うっすらと傷口や糸が見える。糸は黒色だった。何となく、白かと思っていた。

 小学生の頃、一針だけ縫ったことがある。ガラスの破片が右の中指の付け根に刺さり、貧血を起こした。応接間のドアノブを持ち、ドアを開けながら倒れた。意識が戻ってきた頃にちょうど父が仕事から帰ってきて、病院へ連れて行ってくれた。一度診察をして、待合室で待っている時、中から「やっぱり縫ったほうが……」という声が聞こえたので「絶対に縫わない」と父に伝え、父は頷き、もう一度診察室へ入りお医者さんに「傷が深いので縫いましょう」と言われると父は「お願いします」と言ったので私は絶望した。さっき約束したのに!
 あの時の糸も黒かったのだろうか。縫われている最中はとにかく見ないようにしていたので色は覚えていない。麻酔をしていない部分にあたる糸らしきものの感触は、自分が思う糸よりもずいぶんしっかりしていて、糸というよりはワイヤーに近いような感じがした。それから何か冷たいものが手首のあたりに当たった。絶えずカチャカチャと金属のぶつかる音がしていた。
 あの病院には何度も何度もお世話になった。途中で新しい建物に移転したのだけれど、その前の、暗くて古い建物の記憶の方がずっと濃い。診察の最中に貧血で倒れて、点滴を打って、処置室というよりは空いている入院部屋のようなところで一時間か二時間横になっていたこともある。狭くて、薄暗くて、ひんやりして、小さな窓とベッドと椅子以外何もないような病室。途中でなぜか点滴が止まってしまい、もう一度打ち直した。
 とにかくどこもかしこも薄暗くて、窓は全部小さくて、しかもすりガラスだったりして、ぼんやりとした光だけが入ってくる。時間も天気もわからなくなる。

 夫と、気胸で入院していた頃の話になり「大変だったね」と言われたのだけれど、私は病院にいる間はちっとも大変だと思わなかった(ような気がする)。夫の入院した病院は、私の子供の頃の記憶の中の病院とは違い、明るく、広々としているし、窓も大きいので外の様子はよく見えたけれど、やっぱりどこか時間の感覚をなくすようなぼんやりしたところがあった。この部屋にいるのは全員病人なのに、かなしみや絶望は程遠く、むしろ平和な感じさえした。守られている(閉じ込められている)、ということなのかもしれない。ここから出れば、仕事のことや生活のことや、考えることはたくさんあるけれど、この中にいる間は、三食のご飯のことや、薬のことや、体を拭くことや、体温を測ることや、そういうことだけを考えていればいい。その感じは、小川洋子さんの『完璧な病室』を読んだ時の安らかさに似ている。

 夫の傷口を見て、そして入院していた頃のことを思い出して、不謹慎だけれど病気というものや病院という空間を懐かしく羨ましく思ってしまう。私はおそらく健康な体をしていて、だから何も治らないのに、この人は治るものばかりを患い、きちんと治っていく。気胸、粉瘤、という名前を付けられて、それを取り除いていく、その清潔さと安らかさが私にはなく、健康なくせに絶望していて、それを死ぬまで抱えていなければならない。いつも恐怖に耳を澄ませ、目を凝らしている。疲弊した日々。


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