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向田邦子を読む日

小説を読んだことのない作家のエッセイを読むのは、なんだかすみません、という気持ちになる。
そんな気持ちで図書館で借りてきたのが向田邦子[夜中の薔薇]だ。
読書が好きなのに疎い人間なので申し訳ないのだが、私は向田さんが放送作家であったことも知らない。
ただ、実家に[あ・うん]があった。
家には本がたくさんあったが、丁寧に扱われている風でもなく、ティッシュの空箱にしまわれていたりする。カバーのない本も多く、表紙や中に、私の書いた落書きもある。
母はよく本を読む人だったのだと思う。そんな話をしたことはないが、振り返ればそうなのだと思う。今は母親と姉妹のように仲のいい親子もいるが、私は母のことはあまりよくわからない。ただ、阿吽という言葉も知らない幼い私にとって[あ・うん]は、その呪文のようなタイトルと、緑の謎の生き物の描かれた、得体の知れない本だった。

そして[夜中の薔薇]だ。
「食らわんか」という話の中に出てくる海苔弁がとても魅力的だ。

かつお節にしたって、横着なパックなんか、ありはしなかったから、そのたびごとにかつお節けずりでけずった、プンとかつおの匂いのするものだった。

今ならけずりたてのかつお節が出てきたら、なんと贅沢!となるのだろうが、当時は当たり前のことだったのだ。それしかなかった。今は塊のかつお節なんて、どこで買えばいいのだろう。
この海苔弁を、向田さんのお母様は「今朝はお父さんの出張の支度に手間取ったから、これで勘弁してちょうだいね」と謝りながら作っている。
かつお節を削って「これで勘弁してちょうだいね」だ。
もちろん食べ物だけではなくて、お金の価値、仕事、働き方、などなど、様々なことが変わっているのだけれど、この話を読んで、なんとも言えない気持ちになった。

世の中はどんどん便利になる。短い時間でできるようになる。私はその波に乗れない。時間のかからないことや、自分の手が関与していないことが不安だ。ボタン一つで済んでしまうことは、わけがわからなくて、怖い。
そう言いながら、洗濯機も電気ケトルも使っているので偉そうなことは言えないのだけれど、これ以上増えないでほしい、と日々願っている。短縮されることが必要な現場もきっとある。たとえば医療とか。でも、私たちの日常で、短縮すべき時間とはなんなんだろう?その短縮された時間で、何をする?
忙しい人のために、なんて言うけれど、その忙しさの根源はどうにもしてくれないじゃないか。共働き夫婦のためにって、共働きでないと回らない賃金はどうにもしてくれないじゃないか。こういうのって、結局取り繕っているだけなので、いつか崩壊するのではないかと思っている。どんどん短縮して、どんどん働いて、そのループにはまるしかなくなってしまう。道具が壊れる前に、人が壊れてしまうんではないか。

この本は、最後の爆笑問題太田さんの解説がとてもいい。

向田邦子が今生きていたら、どうやって社会と向き合っているか知りたい。

私も同じ気持ちだ。
昔はよかったなあ、と嘆いているわけではない。というより、ギリギリ平成生まれの私は、昔の暮らしなんて体験していない。
ただ、自分で見て考えて選ぶ、という当たり前のことをきちんとやらねば、と思う。パックのかつお節しか選べないかもしれないが、思考を失ったループにはまりたくはない。真剣に暮らしたい。

よくわからない母だって、今よりは不便な中で、私と姉を育ててくれたのだ。不満もあるが、そういう話をもっと聞きたい。でも私たちはそういう仲ではない。それはもう、どうにもならず、そのことが少し、悔しい。

母へ。次はあ・うんを読みますね。


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