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自他境界についてまとめ。

 自他境界についてツイッターで書いたところいろいろリプライなどいただきましたので、そのへんのまとめなど。

 ASD(のわたし)にとっての自他境界というのは、通常言われる自他境界と少し違うのではないか、というのが疑問だったんですよね。そもそも、自他境界があいまいだというのはかなりネガティブな評価です。以前、ASDであるということは自他境界があいまいであるということだ、と決めつけられたことがあり、いくら説明しても分かってもらえず泥沼化したことがあります。あれはきつかった。

 そもそも、自他境界って、自分と他人の心理的境界のように思うんですけどね、これ、自分と他人が同じ強度で存在しないと成り立たないんじゃないかと疑っているのです。
 自分と他人は同じ存在強度? 当然だろう、って、この当然が成り立たないのがASDのしんどいところで、わたしの場合は、意識しないと他人はどんどん薄くなります。物理的な他人、画像としてのあるいは物体としての他人はさすがに薄くはなりません。しかし、意思を持っている他人、とくに、わたしに対してなにかしら思うところがある他人、などという意味での他人は、わたしの意識からはあっさり抜け落ちたりするのです。つまり、他人の存在強度が、とても弱い。
 そんなわたしにとっては、自他境界といわれると、自分と他者、というか、自分と自分以外の世界との境界のことである、と定義したくなります。実際、休日に48時間とか一人でいて誰にも会わず鏡も見ないと、わたし、自分の輪郭線自体があいまいになってくるみたいです。これは、一人でいる時の話で他人はまったく登場しません。心理的な境界の話ではありえませんよね。物理的・空間的な境界線(輪郭)の話です。

 そういうわけでASDに心理的な意味での自他境界が存在し得るのかどうかはあやしいとわたしは疑っています。しかし、ASDは自他境界があいまいだ、と主張する人は存在します。何を指してそう言ってるんだろうと眺めていたら、どうも、「ASDは、こっちが自分の思う通りに動かないと怒るじゃん、それ、自他境界があいまいない人の行動だから!」ということのようなのですね。
 いや、それ、怒ってないです。混乱です。
 混乱なんですよ。予定外・予想外に弱すぎるんです。思い通りも何も、自分の予想と外れた動きをされると混乱する。無差別攻撃に至ります。攻撃は、混乱の原因である相手に向かうこともありますし、自分に向かうこともありますし、どこに向かうかわかったものじゃないです。
 混乱なのだから許してほしいとかじゃないんです。ただ、自分の言うことを聞く「べき」だという思い込みが破られたから怒っていたり反抗したりしているのとは違うよ、というだけです。たぶんね、対処が違うように思うのです。「それは違うよ」「君の自他境界はあいまいでよろしくない」といくら諭されても、責められても、違うとわかっていても混乱は避けられない。混乱とその被害を避けるには、たとえば予想の精度を上げて予想外もそこに含めるとか、実際混乱したときの最初の行動を決めておくとか、言語化をこころみるとか、それはそれで対処法があるはずなんですよね。

 メカニズムの説明をすると「言い訳するな」と怒る人も世の中には多いんですけど、別にだから許してくれとかじゃないんです。わかってもらえるといいな。


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