天才とか一番とかと、自分のこと。

 わたしって天才なんじゃないかな、でもたぶん違う、でもでも、そうだったらいいのにな、とか、延々と悩んでいた時期がありました。十代のころです。大学に入って、自分が「天才でもなんでもない」という事実に直面してその悩みはだいたい終了して、以後の生活は少し平和になりました。

 勉強のよくできるこどもではありました。活字中毒で、本の形態をしているものはなんでも読みました。藤子不二雄や手塚治虫から、松本清張や講談社現代新書まで。1年ちょっとの受験勉強で中学受験をクリアして、市内一番の進学校に入りました。そこでも卒業まで一位をキープしていました。途中で1年間留学もしました。
 でも、これ、天才でもなんでもないってのは、本人がいちばんわかってるんですよね。天才だったらいいな、天才かも? に期待してしまう自分も、その一瞬あとには天才でもなんでもないと冷静に気づいてしまう自分も、両方すごく嫌いでした。
 がんばったら周りより少しは速くいろいろマスターできるかもしれない、努力は苦にならないから別にいい。しかしこれ、周りが同じだけ努力したら、確実に追いつかれるよね? だったら、その努力意味なくない? でも努力しなかったらわたしって何? そう考えてしまう自分はさらに嫌いでした。でもそこから離れられない。

  いや別に天才じゃなくてもいいよね? そのとおりです。いまのわたしなら、そう言えます。でも、当時は、不動の一位じゃなければ、だれかに取って代わられて、いなくていいって言われるような、そんな恐怖があったんですよね。何を誰に取って代わられるのか、いまとなっては謎なんですけど、当時は真剣にそう考えていました。そして、一番がキープできてしまうものだから、「意外と大丈夫」という経験はいつまでたってもやってこないわけです。いつもなにかしらおびえている。
 勉強ができなければどうこうという呪いを、両親にかけられたとかではありません。むしろ、やらなくていいって言われてました。

 大学に入って、たぶん本物の天才みたいな人に複数会って、すごく楽になりました。悩まなくてよくなったんですよね。一番じゃなくても別に何も起きませんでしたし、自分が天才じゃないと分かれば、天才であるかどうかの問いは意味がなくなりましたし。

 そうはいっても、大学時代に、天才どうこうの問題がすべて解決したかといわれると、3割くらいはまだくすぶっていた気がします。残りが完全に解決したのは、たぶん、医者になって自分の受け持ち患者が発生したときでした。わたしが天才であろうとなかろうと、隣の医者より優秀であろうとなかろうと、目の前の患者さんには何の関係もないんですよね。ほんと、何の関係もない。
 そこまでたどりついて、天才どうこうをもう一回考えて、そうか、能力って可能性にすぎなくて、可能性ってまだ実現してないから可能性なんだ、ということに気づいたのでした。可能性はどうでもいいから目の前の患者さんのためにできることをしよう、って、切り替わったんですよね。

 そんな過去があるものですから、天才がどうとか悩まないほうが楽なんじゃないかなとかついつい思ってしまうわけです。発達障害だから天才かもよとか、本人はしんどいかもしれない。天才に近いほど、しんどいかもしれない。だからこその、一つ前の記事なのでした。

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