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スイッチが押された時

歯車が狂い出したのはいつからだったのだろう。
いや、そもそも今ここに存在している現状は「狂った結果」なのか。

今日もいつもと変わらない一日が始まろうとしている。
駅へと続く細い歩道に収まりきれない多くの人たちが、車道を覆い尽くすかのように群れをなしている。

それらは、サバンナに住む動物たちが命を繋ぐためにおこなっている大移動のような様相を呈している。我々も生きるために移動をしているのだ。

仕事をするために職場へ向かっている。
そう、いつもと変わらない日常がここにある。

「あっ、すみません」

右肩に違和感を感じると同時に声が聞こえた。

ふと何かスイッチが入ったような感覚に陥った。非日常への回路に通電したような感覚があった。

最近は人からぶつかられることがあっても、詫びることなく足早に去っていく者がほとんどである。

会社や仕事では礼儀礼節を重んじているはずのビジネスマン諸君だが、その場へ向かう名もなき群衆になりうると義理よりも時間を重んじるのだ。

そう、この事象は日常であるので、然して問題ではない。

ただ、右肩に覚えた違和感よりも、その声に違和感を感じて戸惑ってしまったのだ。

そうこうしていると、その声の主は駅へ向かう歩調を速めていた。腰まで伸びた黒髮が揺れている。

ふと、女はどんな表情をしていたのだろうという考えが頭に巡った。

罪悪感に苛まれたような悲痛に歪んだ表情だったのだろうか。それとも背徳感に耐えられずにはにかむような表情を浮かべていたのだろうか。

いや、これらは女性を感じたいといった男性特有のロジカルである。
そんな男の思惑に反して、無残さをそのまま表したかのような、凛とした表情であったのかもしれない。

しかし、もうそれを知る由はない。知る必要もないだろう。

非日常はこうして日常へ戻っていく。女の後ろ姿をただ黙って見送っている限り。

ただ、その日常を変えてみようという気にもならず、男はいつものように駅へ続く道のりに歩を進める。

今日は雨が降るかもしれない。でも傘は持たない。傘は持ち歩かないことに決めている。その時点で日常を打ち破る気など微塵もなかったのだ。

これまで男の人生で日常とは受け入れざるを得ないものであり、変化をもたらすことができるという考えはなかった。

それは、変化を受け入れることができなかったとも言える。

男の歩幅が大きいので、ぶつかってきた女との距離が縮まる。彼女の揺れる黒髪を眺めているとふとある考えが浮かんだ。日常を変えてみようかと。

なぜそのような考えが浮かんだのかはわからない。ただ、そうしなければいけないような気持ちに心が動いていた。

先ほど右肩に感じた刺激がそうさせているのか。あの時に感じた電気のような感覚が普段考えることのないことを考えさせているのか。

男は目をつぶり立ち止まった。
歯車が狂ったのはいつからだったのだろう。

本当にこのままの人生でいいのか。

今の自分はなりたかった自分ではないはずだ。スイッチは押されたのだ。このまま繋がれた回路に従うだけで良いのだ。

それは、これまでの生活からすると非日常となる。その非日常を選ぶことで日常へと変わる。

スイッチをそのままにして『非日常』を歩き始めようか。それとも、スイッチを戻して再び『日常』を歩こうか。

男は目を開いて、その一歩を踏み出した。

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