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我が母(ママ)のご飯

 私たちは毎日ご飯を食べる。

母に聞いてみた。

「お母さんはいつから家族のご飯を作ってきたの?」

「そうなあ、たぶん小学校の5年生くらいからだったかなあ」

私は合点がいった。私が母に料理の教育をされ始めたのがちょうどそのくらいの頃だった。夕方からはじまったアニメの物語が佳境に入ろうというまさにそのタイミングで「お手伝いはどうしたん?いくら待っても来ないが、もうお手伝いの時間じゃろ!」と弟や妹とテレビを観ている居間に来て鬼の形相で私を呼びに来る。…アニメで盛り上がった気持ちもいっぺんにひしゃげて本当に気分が落ち込んだ。

私はどれほど一番上に生まれたことを恨めしく思ったことか…。

テーブルのセッティング…箸はここ、茶碗はここ、みそ汁のお椀はここ…。だいたい、我が家におけるそれぞれの茶碗の位置は母の采配で決まっていた。

私がテレビに夢中になって手伝いに行かなかった日の母の機嫌の悪さときたら、肝心の晩ご飯を食べる間も、なんなら寝る時間まで続いてしまう…それが余計に嫌だった。

食卓に漂う不穏な空気が嫌だった。

楽しいおしゃべりなどなく、葬儀のような沈黙が嫌だった。

きっと穏やかなる沈黙の時間というのもあろうかとは思うが我が家にそれは望めなかった。母の機嫌が空気を支配するからだ。

 だけど、遥かな時を経て今はわかることがある。

この台所での母との時間が私を育ててくれた貴重な時間であったことを。

母の隣でキュウリの千切りを教えてもらったり、鍋に入れる野菜の順番を教えてもらったり、調味料の配分を教えてもらったり、豆の皮むきをしたり、魚のウロコを削いだり、豆腐や胡麻をすり鉢に入れてすりこぎで潰したり百も千もの知恵を授かりながら、母にさまざまな疑問をぶつけていた。

母に向けて話したのはおもに学校で今日あったこと…の話だった。

大概は母がいうのはこうだった…「それで、あんたはどう思うの?」

私が自分の意見をいうと「お母さんもそう思う」というときもあれば、「お母さんはそうは思わない」という時もあった。でも決して「あんたの考えは違う!」とは言わず間違っていても一緒に考えようとしてくれた。

 「宿題よりもお手伝い」というのが母のセオリーであった。

お手伝いのお陰で日々の暮らしを人がどのように営んで行ったらいいのかを教えてくれていたような気がする。

そしてまたお手伝いのお陰で自分で考える力や料理の技を磨く砥石まで手に入れた。

あの幼い日、あれほど恨めしかった時間を過ごした「台所」は母との絆を育む場所であった。そして、母の作ってくれた料理はすべからく愛情という名の栄養であった。晩ご飯は気分次第に機嫌の悪さを振り回すわがままにしか見えなかった母が鍛えてくれた生きる力であった。





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