風呂にて候。
連休明けの仕事を終えて家路についた。
家に帰るとお風呂が空いていて「お風呂空いたからどうぞ〜」と
母 百合子がすすめてくれる。
湯船につかった瞬間「あ〜〜天国!」と思わず言葉が口から出て行った。
お風呂とは何という天国だろう。
わざわざ天国がどこかにあるのではないかと探さなくても
天国はここにあるではないか…
「風呂」だ。
日本人の風呂好きは今に始まったことではない。
母をのぞいては風呂が嫌いな日本人などいるのだろうか…
と言うぐらい私の周りは風呂好きばかりである。
血は薄いが義理の祖父は部類の風呂好きであった。
毎日、風呂に入るのだけはかかさない。
自分で事業を起こして檜の風呂を買った。
私たち…孫たちと祖父は毎日一緒に風呂に入り
「ババンばバンバンバン🎶はっビバノノ🎵…」
と楽しくやっていた。祖父は幸せだったと思う。
死んだのも風呂である…祖父は幸せだったと思う。
人生最高の笑顔ではないかと言うほどの祖父の死に顔は笑顔であった。
私は疲れた身体を湯船に浸し幸せ感に包まれて
思わず「あ〜〜幸せ。ありがと〜〜う!」と叫んでいた。
狭い風呂の空間に響き渡る私の言葉はますます私を幸せな気分にした。
そして叫んだ後は脳内にα波が満ち溢れてくるに任せて目をつむった。
…そしたら記憶が蘇るではないか…。
私は26歳の時、スペイン一人旅と称してスペイン国内の
町や村を100か所ほど歩きまわったことがある。
…とある町のことであった。
私はやっと見つけた安宿で3日ほど滞在することにした。
疲れをとるためもあって、お風呂があるかどうかもチェックしていた。
安宿は大概シャワーしかない。
そこは共同の浴室とはいえ、なんと金色の脚つきの白いバスタブが
あるではないか…私は静かに興奮していた。
やっとお風呂に入れる…。
そこは石造りのビルの2階のワンフロアをオスタルという木賃宿にしていた。
ワンフロアには4部屋ほどしかなく、トイレ、バスは共同だった。
その日、そのオスタルのオーナーが出かけるという。
私は一日中ゴロゴロする予定で出かけるつもりがなかった。
オーナーは私に鍵を預けてくれてこう言った。
「これから私はいかなければならない用事があって
出かけるが2〜3時間で戻ってくる。
ここには君しかいない。だから誰かがドアをノックしても
無視してくれたらいい。私が帰るまで誰も入れてはいけないよ。」
…一人旅の中で簡単なスペイン語ならだいぶ理解できるように
なっていたのでオーナーの言うことは良く分かった。
「Si!(はい)」と元気よく応えてオーナーを見送った。
オーナーが出ていったあと、これ幸いと
私はお風呂へ向かった。
ね〜〜入ったことある?
シャワーが浴槽の縁に真鍮の白鳥の首みたいな形でついてるやつ。
そんでもって金色のライオンの脚みたいのでささえられた
白いバスタブ!
あ〜〜、夢のよう!
しかも誰もいないから遠慮なく数時間も独占できるし
まだお昼前だから窓から光が燦々と降り注いで
…………あ〜〜ここは夢の世界だわ。
バブル石鹸を使うとバスタブの中は泡だらけ。
全身泡だらけ…けっこう毛だらけ私も髪も泡だらけ。
まるで映画女優よろしく泡の中から片足を突き上げてみたりして
優雅さの極致に悶絶しそうな幸せに浸っていると…
遠くからドアを叩く音が聞こえてくるではないか…。
私は内心「ごめんなさいね…ここにはだ〜れもいないのよ、
今日は居留守を使えって言われてるの。」と思ってほっておいた。
鼻歌の具合もよろしく、気分も最高!
…なのに、ドアを叩く音が止まない。
何故だ…なにゆえこんなにしつこいのだ!
私の気持ちは天国から一気に駆け下りてきて
不安がもくもくと盛り上がってきた。
それでも一縷の望みをかけて湯船で聞き耳を立てていた。
…が、悲しきかなドアを叩く音は一向にやまない。
私は仕方なく泡まみれの全身をバスタオルで覆ってドアまで行ってみた。
ドアの覗き穴から覗くと二人の若げなお兄ちゃんたちが立っている。
ドアの向こうから
「いるんだろ!そこにいるのはわかってるんだ!
早く開けてくれよ!」という怒鳴り声が聞こえる。
だれだ〜〜こいつらは。
オーナーから絶対開けるなといわれてる。
私の中で恐怖心がいや増すのを感じながらもドアからそろそろ離れた。
「おい!そこにいるのはわかってるんだ、早く開けないと
このドアを壊すぞ!」
私は恐怖に震えた。
どうしよう…。
バスタオル一枚まいただけの格好で自分の部屋に戻った。
ふと窓から下を見下ろしたときだ…
なんとお向かいのバル(スペインの立ち飲み居酒屋)に二人の
警官が入っていくではないか…
私はとっさに「Socorro!Ladron!(助けて!泥棒です!)」
と、とにかく緊急であることを示そうと
向かいの二階の窓から下に向かって大きな声で叫んでいた。
バスタオル一枚で…。
一旦店に姿を消した警官が慌てたように通りに出てきて
「Que pasa?(どうした?)」
って二階にいる私に気づいて聞いてくれたので
私は天の助けとばかりに、ほかの単語が思い浮かばなかったという
理由だけで「Ladron(泥棒)!」と返してしまった。
果たして彼らは泥棒なのだろうか?
警察が来てくれるので私は大慌ててで
冷めてしまった泡だらけの身体を拭き取り
なんとか服を着て、乾いていない髪、すっぴんのまんまの格好で
ドアのこちらからあちらをのぞいていた。
何やら男たちと警官は早口で話しているのだけど
私には早すぎて何が話されているかわわからない。
しばらくの後、ドアをノックされた。
警官なので安心して私はドアを開けた。
「お嬢さん、この男たちはここへ宿を借りているそうだよ。」
…なんと、びっくりである!
そんなことひとっことも聞いてない。
私の他にも今日ここを借りてる人がいたなんて…。
…結局この2人は自分たちの止まっている個別の部屋の鍵を持っていた
ことで、このオスタルに宿を借りている住人には違いとないということが判明した。
どうやら工事の関係でこの街に逗留している労働者で
このオスタルにはもう随分長い間逗留しているとの事。
私は警官が帰っていくのを見送りながら
警官にもお兄ちゃんたちにも申し訳ない気持ちでいっぱいなった。
2人の男の一方が私に訪ねた
「怖かったから開けなかったのか?」と。
私はそうではなくてオーナーに絶対に誰も入れるな!と
言われたから開けなかったのだと話した。
そうして私が鍵を預かっていることを知ると男二人は
「なぜ君がこの玄関ドアの鍵を持っているのか?」と聞かれた。
オーナーが私に預けてくれたことが気に入らないようだった。
それからが大変だった。
オーナーが帰ってくるとこの2人の若いお兄ちゃんたちは
オーナーに食ってかかっていた。
「なんであの昨日来たばかりの日本人にドアの鍵を預けるんだ?
ずっと滞在している俺たちには預けてくれないくせに!どう言うことだ!」
と怒りまくっていた。
私はもう関わりたくなくて部屋で静かにその喧嘩ごしのやり取りを聞いていた。
次の日、街の公園の傍を散歩していたら昨日の2人が働いていた。
私は2人のところへいって謝った…「ごめんなさい」
「君が悪いんじゃない、あいつのせいだ…もういいよ。」
昨日とは打って変わってとても優しそうな青年に見えた。
もしかしたら私一人が勝手な想像のなかで
恐怖を作り上げていただけかもしれなかった。
もっと冷静でいたら警官なんて呼んでおおごとにしなくてすんだ。
…そういえば、そのオスタルの宿帳に私が記載しているとき
オーナーが言った「お〜、なんて綺麗な字なんだ!日本人は字が綺麗だ。日本人は頭がとてもいい。」
もしかしたらそれだけのことだったのかもしれない。
日本人である私を信用して鍵を渡したのは。
日雇い労働者のような同郷の若い彼らの方がオーナーの目には
怪しく写ってしまっただけなのかもしれない。
人は自分のフィルターを通してしか世界をみることはできない。
どこまでもニュートラルな偏見のない目を持てる日がくるのだろうか…。
お風呂に入っているとさまざまな記憶が蘇ってきたり
はたまた思いもよらない歌の歌詞を思い出したり、
突然すばらしい詩のような一文が舞い降りたりする。
お風呂は本当に天国かもしれない
自分が忘れていたり、あるいは思いもよらない名案を授かったりできる。
私も亡き祖父のごとくに風呂好きである。
満面の笑顔で逝けるよう幸せを数えていよう。
風呂で曇った鏡を拭きながら自分の顔を映してみる…
風呂にて候。
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