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本屋に本がなかった日

本屋に本が売っていない。
正確に言えば、本屋に私の欲しい本が売っていないのだ。この前などは文庫本を買おうと思って本屋へ立ち寄ったのに、そもそも文庫本のブースがほとんどなく驚愕してしまった。まあ、小さい店舗だし仕方がないか……と思いながら次の本屋、次の本屋、と巡っていくも全然文庫本が売っていないのである。


結局その日は駅を移動しつつ四件の本屋を回ったが、欲しい本を買うことは終ぞできなかった。本屋の本たちを観察してみると、多いのは漫画とファッション雑誌、それから旅行雑誌といったところか。あとは自己啓発本と、最近ドラマになった原作本。そういえばこの前、参考書を買おうと思って本屋に入ったらちっとも見つけることができず、店員さんに尋ねると「参考書は取り扱っていません」とのことで、大変驚いた経験も記憶に新しい。本屋によってはそういうこともあるのか! と衝撃を受けた。


その日、私は海外文学の文庫本を探していたのだが、本屋の中にはそもそも文庫本が少なく「文庫本だ!」と嬉々として近づくと、全部時代小説なんてことも多かった。もう時代小説しか紙で読まれないと思われているのだろうか。たしかに時代小説はシリーズモノで長く続いているものが多いから愛読者はずっと買い続けるし、その読者層も紙で読む派の多い年齢層だろうとは容易に推察できるけれど。


私が主に愛読しているのは、近現代文学や外国文学辺り。これらを街の本屋で探してみると見間違いかと思うほど、ない。 最近、本屋が減っていると悲しい話題をよく耳にするが、そもそも本屋に買いたい本がない状況である。でも、もしかするとこの状況は今に始まったことではないのかもしれない。私は今まで家の近くの独特な本屋たちばかり利用していたので「街の普通の本屋」を利用する機会が少なかったのである。


もしかすると、最初から本屋に文庫本は少なかったのでは?
いや、そんなことがありうるのか?


 [本屋が減っているのは本を買う人が減っているからだ]
   ↓
 [少しでも売れる本を置く]


この考え方で言えば、本屋に漫画や雑誌が多く小説の文庫本が少ないのは一見納得できるように見える。でも「こうじゃないの?」と私は思うのだ。


 [本屋が減っているのは紙の本を買う人が減っているからだ]
   ↓
 [わざわざ紙の本を買うような人に売れる本を置く]


電子書籍の台頭が目覚ましい昨今、もはや「紙の本を買う派」はどんどんマニア的存在になっていくのではないだろうか。業界に詳しくないから的外れかもしれないが、わざわざ巻きタバコを嗜む人のような、そんなイメージ。


「本屋に本がない」という衝撃を受けたあと、もしかしたらと思い少し調べてみたのだが、読書習慣のある人の中でも小説を読んでいる人は少ないみたいだし、その中でも海外文学はさらにマニア的ポジションらしい。まったく知らなかった。私は他人が何を読んでいるかにまったく興味がないので今まで「あの人のオススメ書籍リスト」などを見たことがなかった。だから「人は案外、純文学を読んでいない」と気付かなかったのだ。そんなことになっていたのか。


あと、この「純文学」という呼び方も、今回色々と調べているうち、対外的には便利な言葉だと気づいた。「大衆文学」に対して「純文学」と言うとわかりやすいからだ。私は「純文学」を愛読していると言えるらしい。この「純文学」という言葉の便利な使い方を習得したとき、大学の小説を書く演習で先生に「君は純文学がやりたいんだね」と言われたことを思い出した。当時私は「そうなのか?」「何をもってして純文学と言えるのか?」と思っていたのだが、つまりこういうことだったのだろうと思う。今でも本音では「何をもってして純文学と言えるのか?」とは思っているのだが、少なくとも私はストーリーを書くために書かれた本はあまり好まないし、自分もそういうものは書かないだろうなと思っている。もちろん、どちらがよいとか悪いとかはない。好みの問題だからである。


つまり、私の感じた「本屋に本がない」は「本屋に純文学がない」と言い換えられる。そして、今後わざわざ紙の本を買い続けるような好事家は、純文学を読んでいるのではないかと思ったわけである。


色々考えてみて、これは半分正しくて半分間違っているのだろうと思う。
まず、わざわざ本を買うやつは店頭になければ注文してでも買うから店頭に並んでいなくても構わない、という話。実際私がそうである。そして、そういうマニア層の数はそんなに減少していないだろうと思う。


つまり、問題になってくるのはライト層。ここの浮動票が電子書籍や動画配信サービスに奪われているから本屋は減っている。と思われる。だから、本屋の選択は圧倒的に正しく、漫画や雑誌をたくさん揃えるほうが少しでも浮動票の獲得に繋がるだろうというわけなのだが…………わかっていても、本屋に純文学がほとんどないのは寂しい話だな、と思うのである。


そういえば、ノーベル文学賞をヨン・フォッセ氏が受賞したとき、浮かれた足取りで渋谷の大きな本屋へ行ったらどこにも件の著者名が見当たらず(これは後に現状日本ではほとんど氏の著作は翻訳されておらずそもそも在庫数が少なかったためだと判明したのだが)、店員さんに「文学賞の……」と尋ねると心底「はて?」という顔をされたこともあった。あの「は? マジで何の話?」という顔は、今後も忘れられないかもしれない。こちらからすれば「は? 書店員だよね?」という気持ちだったが、もはやそういう時代ではないということなのだろう。あの本屋に多かったのは、アイドルや俳優の写真集だったし。


今回の話にオチはない。解決策もない。ただ、そう感じたという日記である。紙の本の未来、本屋の未来、どうなっていくのだろう。私は大富豪ではないので成り行きを見守ることしかできないが、ひとつ希望を抱いているとすれば、それは絵本である。


絵本はやはり、紙でなければ。紙の本の未来は絵本にかかっている!
そう私は考えている。
絵本専門店や専門の図書館などもあるし、今度巡ってみようかな。


いつか絵本もつくってみたいな、などと妄想を膨らませながら、今回はここまで。



おわり

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