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アルときは、スーパースター/ターボ、お前の時代だ!1979の国産車

1979年という一年は歴史上の大きな転換点でもあり様々な変節点ともなりました。イラン革命に端を発した第二次石油危機では国内のガソリン価格が130円を突破し、自動車の開発でも80年代に登場する新型車にことごとく影響を与えることになる・・・・・

この時代排気ガス規制で販売もガタ落ち、新車開発スピードも極端に低下していた軽自動車界に価格破壊の波が襲います。震源地はスズキ。修社長が放った起死回生策は45万円の軽乗用を売り出そうというもの。当時は50ナンバーの軽乗用車が軒並み60万円以上していた時代、30万円台でホンダのNが買えた時代はとっくに遠ざかっていました。そこで鈴木社長は物品税15%のかからない商用登録の40ナンバーに目をつけました。これで値下げ第一弾成功!だけではありません。ラジオもワイパー電動ウォッシャーも当初は取り外し、助手席側ドアの鍵穴も要らない!とばかりに省略しました。この時代だからクーラーもオプションがデファクト。

商用登録では後席のスペースより荷室の広さを重視せねばならず法規を満たす最小限のリアシートと、リアウィンドウに荷崩れ防止の鉄棒が必要でしたが、軽商用の車検は乗用並みに2年間隔だったので、ユーザーには殆どデメリットが見当たりません。50ナンバーのスズキフロンテよりも遥かに安く、大きく売り上げを伸ばしました。これが軽のスズキの今につながる大ヒットとなったのです。

軽商用ではもう一つ、サンバーライトバンにハイルーフ仕様が加わったのも見逃せないニュースでした。たちまち他メーカーにも伝播、ブティックなどではワンピースをハンガーに掛けて移動できると重宝がられたものでした。

ピックアップ・トラックもこれまでは日本のユーザーにはあまり見向きもされない存在,だったのがトヨタ・ハイラックスに追加された4×4をきっかけにオフロードファンやサーファーなどにも浸透し始めます。ブームの震源地はアメリカ西海岸、日本の小型トラックを4×4化するキットの普及があっという間にメーカーをも巻き込む四駆ブームを育てることになります。

さて、厳しくなる一方の安全基準で英国車が得意としたライトウェイト・スポーツ達も風前の灯に近い状態。唯一スピットファイア―・スプライト(カニ目)の末裔、ミジェットとMGBだけが細々と生きながらえている状態。他にはベンツのSLやアルファロメオのスパイダーくらいしかオープンエアを満喫できる車種がありませんでした。

ここでまたドイツからゴルフが新風を吹き込みます。かぶと虫の生き残り、カブリオレ・ボディの実質的な後継車・ゴルフカブリオ登場です。それまでのオープンボディと大きく違ったのは前後席を隔てるような太い頑丈なロールバーを残してオープンにしたことです。これならアメリカのキビシイ転倒事故の基準もクリアでき、屋根を切り取った車体の剛性もある程度保てます。5年後にホンダもこの手法に倣うことになりますが・・・・・

ホンダ・シビックは、当初社長の一声でモデルチェンジはしない!と公言していました。しかし当の本田宗一郎社長は自ら勇退した後で、お手本としたフォルクスワーゲンも事実上ゴルフへのモデルチェンジを成功裏に収めた所でした。

シビック、いよいよ史上初のモデルチェンジ!と言ってもデザインの基本線は替えずに、寸法アップだけしたかのような手法。4ドアより短かかった3ドアのルームスペースを5ドアと同一にしたほか、トランクの付いた3boxセダン(バラード4ドア)もバリエーションに加えていくことになります。

この新シビックで特質されるのは集中ターゲットメーターという異色のタコメーターを誂えたこと位でしょう。スピードメーターと田尾メーターの針を同心円状に並べて、ひと目でスピードとエンジン回転数が読み取れる!という新機軸を狙ったものでしたが、他にはプレリュードが採用した位で誰も真似するものもなくいつしか忘れ去られた存在でした。この世代には初代のRSのようにスポーツ性を打ち出したモデルも無く、歴代でもおとなしい地味なシビックだったと言えるかもしれません。

シビックと並ぶ大衆車の雄、ベストセラーカーのカローラもこの年、4代目へと移行します。デザインはゴルフの影響を受けたか、シャープでパキッとした直線と平面で構成されましたが、クーペもハードトップもリフトバックもパーツの共有化が進みました。モリゾウこと豊田章男・現社長の最初の愛車もこのカローラ(セダン)でした。セダンのフロントは丸型4灯式のヘッドライトが並び、ライバルたちよりも格上を印象付けたのがカローラならではの手法。ちょっと嬉しい‥‥はキャッチコピーにも使われたキーワード。

カローラとサイズが近いレオーネやランサーもこの年第二世代へとバトンタッチ。デザインはどちらも先代とは似ても似付かぬ別物で、引き継いだのはネーミングとエンジンだけ、と言って良いほどの変わり様でした。

カローラと同時期にはトヨタの主峰クラウンもフルチェンジ。3ナンバーは2800エンジンに増強、ディーゼル搭載車のバリエーションも増えました。

2世代にわたり、アメリカンなグラマラス・ボディを纏ってきたセドリック・グロリアですが、79年には大変身、直線と平面でデザインされ、リアのウィンドウが鋭角的にラップしたハードトップボディを纏って登場。2ドアは無くなります。このクルマの最大のセールスポイントは日本車初のターボ過給エンジンを搭載したことでした。

当時の2リッターエンジンでは燃料噴射でも130馬力前後が事実上の上限、排気ガス規制で150馬力も出すようなスーパースポーツは既に姿を消しています。セド・グロ-ターボが狙ったのは最高出力ではなく、20kg以上と余裕ある最大トルクでグイグイ加速できるおおらかさの方でした。翌年、同じエンジンを搭載するスカイラインにも搭載され、唯一ツインカム・エンジンを与えてもらえなかったジャパン世代に与えられた高性能バージョンとなります。

ではなぜセドリックの方が一番乗りを果たしたのか?当時はオイルショックの真っただ中でした。ガソリンをがぶ飲みするスポーツタイプを出しても企業イメージにはプラスになりません。ターボエンジンの排ガスエネルギーの再利用といった効率による高さをアピールするための方策でした。最高出力の145馬力はとっても控えめな数字で、本来のポテンシャルはもっと上、でしたがそこは周囲の情勢を鑑みて・・・・・パワー競争は次の世代に譲ることとなります。

いっぽう数世代にわたってコロナとのBC戦争で苦杯をなめ続けたブルーバードが反撃攻勢に打って出ます。沢田研二にスーパースターだと命名された910型・6代目ブルーバードは名作510の薫陶を受けたかのような直線基調のシャープなデザインに生まれ変わります。自慢の4輪独立懸架を武器に、前輪にはハイキャスター、ゼロスクラブという高速安定性を重視したうえで切れ味鋭いラックピニオンギアを採用した、評価の高いステアリングシステムが採用されます。コロナとの販売争いでも久々に優位に立ち、クラス一位の座も奪還。前輪のジオメトリーは後々国産車がこぞって採用するものとなりました。

さて610型から追加された6気筒バージョンが見当たりません。いえ、追浜工場ではちゃあんとロングノーズの6気筒ブルーバードが作られていましたがこれは輸出専用車。同じころ6気筒の全く新しいクルマの試作車が生産ラインを流れ始めていましたが・・・・、

この年の夏、東名高速日本坂トンネルで100台もの車が延焼する大きな火災事故が発生し、数か月の間日本の大動脈が遮断される大事故が発生しました。プロ野球選手が使うグローブが選手の移動に間に合わない!物流のみならず人流にも甚大な影響を与えたアクシデントは、日本経済をも揺るがすダ事件だったのです。

そして当時のソ連がアフガニスタンに侵攻したことが、翌年のモスクワオリンピックボイコットの火種になろうとは・・・・・いよいよ混迷の80年代を迎えます


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