BC戦争で振り返る「コロナは再流行するのか」?

その昔、BC戦争と呼ばれる販売合戦があったのを覚えておいでのマーケティング担当者ももう数少なくなって来たことだろう。
何しろ話は昭和30年代にまで遡るのだから・・・・・

でも、この販売競争は自動車マーケティングの大きなヒントになるのではないかとも思う。トヨタと日産の今にも通じる販売戦略の違いが垣間見えるからだ。

トヨタが一躍国産車の地位を向上させたクラウン初代RSはあまりに有名だが、その後に続く新型車=コロナの初代は必ずしもヒット商品とは呼べる代物じゃなかった。クラウンの商用車、マスターラインの安価な部品を流用してひとまわり小振りで安価な大衆車を目論んだのがコロナの位置付けだったのだ。

販売店網も二番目の販売系列=トヨペット店を新たに立ち上げてクラウンとは独立した商売を目論んだほどの力の入れよう。メイン・ターゲットのひとつは中型タクシーより料金の安い小型車タクシーの需要だ。東京駅の乗り場に並ぶのは大抵クラウンなどの中型タクシー、これが神奈川の西部あたりまで遠ざかると駅前に待機するのは小型タクシーだった。日本全国大抵がそうであって大阪などの都市部にしか中型を見る機会はなかったのである。

ライバル日産は自前の小型車としてクラウンとは正反対の安価で、小型の大衆車普及を目論んだ。価格で大雑把にクラウンの6割ほど。ノックダウン生産していたオースチン各型よりさらに小さい1リッター・カーのダットサン110型、210型を日産店で販売した。これがフルモデルチェンジを経て若干モダンなスタイル、小型タクシー枠に合致するサイズに大変身したのが310系でサブネームを与えられたブ初代ルーバードの誕生だった。デビューはコロナ誕生の2年後。同時期にコロナも思い切ったモデルチェンジを断行して二世代目に生まれ変わる。
物議を醸したアローラインの二代目コロナはタイヤが四つあること以外は全くの新型を標榜し、クラウンとの共通部品もほぼ見当たらなかった。設計にかけるトヨタの意気込みは相当なもので乗り心地を重視した複雑な後輪サスペンションは結局故障が多いとタクシー業界の不評を買い、ブルーバード同様安価な板ばねに戻さざるを得なかった。
ほとんどが法人需要に頼ったクラウンと違い、本格的に個人所有のオーナーカーとして企画された両者だけに販売台数も1〜2を争うバトルが展開される。同クラスにはまだ日産とは別会社だったプリンスのスカイラインしか存在していない。

コロナ二代目の不評をよそにブルーバードは快進撃を続け、女性オーナーにターゲッティングしたファンシー・デラックスが花を添えた。計器盤に花差しを加え、ハンドルやシフトレバーはクリームかホワイト系、パステル系ツートーンカラーのボディーカラーも十八番だった。スズキ・アルトの麻美スペシャルに20年も先んじた女性仕様だった。

そのブルーバードは次世代410系でコロナに水を開けられる結果となる。神奈川県追浜に新規工場を立ち上げ、モノコック・ボディという、スバルが採用していた軽量構造をいち早く採用。デザインはイタリアの名門ピニンファリナに依頼したものだった。この尻下がりのデザインが日本人には馴染みのないクラシカルなニュアンスを表現したものだったからか、コロナ(次世代)の逆襲をかわすことができなかった。
追加モデルとしてツイン・キャブで武装したSSや1600ccエンジンに増強したSSSを追加せざるを得なかったのもコロナ対策と言えなくもない。サファリ・ラリーなどの国際的イベントに積極参加させたのもデザイン以外でのアドバンテージをアピールするためのものだったことが想像できる。

他方、巻き返しを図った3代目コロナPT40系は東京オリンピック開催とほぼ同時にデビューし、ブルーバードよりもひとまわり大きく豪華に見えるスタイリングをほぼ同価格帯で提供した。ブルにはあった2ドアセダンを無くし、4ドアのみとしていた。さらに翌年には日本車で最初に2ドア・ハードトップを設定し、おしゃれなパーソナルカーのイメージを定着させたのと同時にスタイリングという付加価値で収益アップが図れた。

そうなると、今度はブルーバードも捲土重来を図らぬわけにはいかぬ。当時プリンス系で開発の進んでいた新型車ローレルの技術を先取りし、排気量でコロナに200cc劣るエンジン排気量の格差を先進技術で埋めようとしていた。

前席の左右ウィンドウからは三角窓が消え、代わりに換気の役を担うベンチレーション・システムが完備された。国産車のインパネにエアーの吹き出し口が並ぶ光景はここに始まる。
リアの足回りには4輪独立サスが奢られた。操縦性や乗り心地を重視しただけでなく、重く大きなリア・アクスルを固定してフロア・トンネルを小さくし、室内空間を広げる目論見もあったのだ。SSSはサファリラリーを制するまでに高性能化し、技術面でのアドバンテージをアピールした。お手本はBMW1500ノイエクラッセ

時、あたかも昭和40年代。ベビーブーム世代が成人年齢に達し爆発的なマイカー需要が予想できた。1966年のサニー・カローラ、翌年のホンダN360登場が日本のマーケットに与えた影響は計り知れないものがある、と同時に販売合戦で1〜2位を争うのはBC(ブルーバード・コロナ)ではなくなり、より小型・安価なカローラ・サニーの争いになりつつあった。

ブルーバード、コロナの争いは2年違いのモデルチェンジごとにシーソー・ゲームを繰り返す。コロナ優勢だった全体の流れの中で6代目に相当する910系ブルーバードだけは月間販売台数でコロナを上回った久々のヒットだった。卓越したハンドリングをアピールし、コロナにはない4ドア・ハードトップを戦列に加えたのも好調を後押しする要因に。CMキャラでは沢田研二と長嶋茂雄が対峙した。

90年代を迎える頃には日本の乗用車の売れ筋も多様化し、永らくベストセラーだったカローラもヴィッツやプリウスに取って代わられ・・・・・コロナ、ブルーバードのオーソドックスなトランク付き3ボックス・セダンの存在も希薄になり、ファミリーカーという呼ばれ方自体も無くなっていく。

ブルーバードはシルフィと名付けたパルサーの双子車に格下げ、合理化。コロナもプレミオと名を変えてのちに兄弟車のカリーナ/アリオン共々ブランド消滅の運命が待ち受けていた。

かつて争ったベストセラーの地位はホンダのNboxやヤリスに譲り、静かに潮が引くように市場からもタクシー乗り場からも消えていった。

クラウンという上級車種でまず法人需要、富裕層に切り込んだそのあとで大衆層を狙った安価な車を大量に造る。多くのメーカーがそうした道のりを辿る一方で日産、それにホンダ始め軽メーカーは当初から大衆向けに薄利多売を目論んで行った。
電気自動車の時代になってもそう・・・・・

大半のーカーはまず高価格車で様子見、のちに価格破壊を目論む。
テスラは最大のSクラスから普及クラスの3シリーズ、さらに安価な2クラス導入が噂される。
日産リーフは当初からミニマムなスペックで作られていた。24kwの電池容量も370万円の価格も、これ以上は削れない必要最小限。そして航続距離を割り切ったサクラの登場。
これはリッターカーでスタートしたダットサンの系譜そのままだ。

トヨタはどうやって太刀打ちするのだろう?
リーフと真っ正面から対決するライバルを送り込めば、それはBC戦争の再来に他ならない。でも、コロナの商標登録だけは決してないことだろう。

世界を震撼させた新型コロナウィルスの国内第8波流行も、このところ低落傾向が続く。しかし、このままゴールデンウィークも新株の発生がなく低落したまま推移することができるだろうか?新たな派生株が生まれない、と断言できる理由が見当たらない・・・・


トヨタからコロナの名跡復活がないであろうのと同様、コロナ禍もどうかこれっきりであってもらいたい

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