報道のNikonが見つめた1972年はニュースの嵐だった
ニコンFを刷新したF2がデビューして間もなく幕を開けた1972年は札幌で冬季の五輪が、ミュンヘンで夏の五輪が開かれたタイミング。このあと1980モスクワ大会にはニコンF3、1988ソウルでF4、1996アトランタでF5とニコンのフラッグシップ機も刷新されて来ました。
報道のニコンと言う言葉が定着していたのもFシリーズあってのもので、老舗の新聞各社はまず社用の機材にニコンを揃えていたと言っても過言ではありません。そんな1972年は高度成長期を支えた佐藤栄作政権が終わって田中角栄総理が華々しくデビューを飾った年.
(写真は記者会見場から新聞記者が退場してTVカメラだけになった佐藤栄作総理の記者会見)
グアムから生還した横井庄一さんも日中の国交回復も沖縄の返還も太平洋戦争が終わって四半世紀も経つこの頃になってようやく実現した出来事ばかり。その裏では行き場を無くした連合赤軍の起こした事件がいっぺんに世相を暗くした感もありました。
札幌冬季五輪で男子ジャンプ陣=日の丸飛行隊やフィギアスケートのジャネット・リンが話題をさらった直後、お茶の間のテレビは軽井沢の別荘地で起きた人質救出作戦のTV中継に釘付けになってしまいます。管理人女性が無事救出で幕を閉じた長時間の生中継は夕方までCM無しの放送記録も打ち立ててしまいます。
連合赤軍と言うテロ集団が起こした数々の凄惨な事件の行き着いた先はイスラエル、テルアビブの空港で無差別に多数の利用客を銃撃した連合赤軍乱射事件でした。世界を震え上がらせたこの無差別テロ事件は、この後で起きるミュンヘン・オリンピックの悲劇へ続くものでした。
イスラエル選手団を誘拐,拘束した国際テロ集団は銃撃戦の末に射殺されましたが、巻き添えとなった選手たちも救出される事なく事件の犠牲者に。オリンピックは丸一日全ての競技をストップして喪に服しました。
世界を舞台にしたテロ事件はこうして人々の目に触れる事となったのです。
怪鳥と呼ばれる超音速旅客機コンコルドが初めて羽田に姿を見せた頃、成田空港はまだ開港前でした。華々しい次世代の夢の飛行機が翌日の朝刊紙面を飾るかと思いきや,紙面に載ったのはインドで発生した日本航空機墜落の一報を知らせるニュースでした。それまでは、墜落事故の少ないナショナル・フラッグキャリアとして名を馳せていた日航機の墜落事故、墓標のように事故現場に屹立していた垂直尾翼の鶴のマークが涙を誘いました。
実は日航の事故はこれからの10数年,立て続けに発生することになります。ニューデリーの事故から半年も経たぬうち、モスクワのシェレメチェボ空港でまたもや日航機が墜落事故。原因はコ・パイロットが離陸の際、ギア・アップ(車輪格納)と間違えてフラップ・レバーを格納位置にセットした事による単純な操作ミスでした。こうした誤操作は10年後に羽田沖でも繰り返される事になります。
飛行機より安全と思われた鉄道でも悲惨な事故が起きています。北陸トンネルを通過中だった急行列車きたぐにから出火し、有毒ガスを吸い込んだ乗客が多く犠牲となりました。トンネル内での鉄道車両火災は地下鉄路線網の多い都市生活者にも無縁ではありません。工事中だった横須賀線地下新線を通る中距離電車など、難燃化対策を施された車両が作られるきっかけともなりました。
キャノンカメラがデザイナーに人気だった広告業界では2つの印象的なキャッチコピーが日本を席巻します。
日産ローレルの「ゆっくり走ろう」はフォークグループ六文銭の上條恒彦が高らかに歌い上げた歌詞のサビのフレーズ。モーレツ一本槍で走り続けて来た日本人に価値観の変換を提唱したものでした。
そしてヒットチャートを飾ったヒット曲がもう一つ、ケンとメリーのスカイラインのCM曲です。スカイラインとしては四代目へのモデルチェンジに際して、若者たちを意識したアピールが図られ、先代の愛のスカイラインを一層具体化させたフレーズがケンメリだったと言うわけです。
CMソングはフォーク・デュオ=buzzが歌詞を「愛と風のように」と歌い変えてNHKでも頻繁にオンエアされました。フォーク界の人気No.1吉田拓郎がスバルRexの為に書き下ろした「僕らの旅」もTVCFとして盛んに流され「結構んしようよ」「旅の宿」に続きポピュラーな存在となっています。
様々なニュースが踊っていた1972年
報道現場のデファクトだったニコンも機材が記者の自前負担となってしまった今では、キャノン・ユーザーも確実に増えており、社有のニコン機材を見る機会も以前ほどでは無くなりました。
20年ほど前にはデジタル化が始まり、最後にフィルムニコンを目撃したのは2000年頃に地方紙のベテラン記者が手にしていたニコンF4でした。
シドニー五輪の頃からは閉幕後に緊急出版される写真集も次第にデジタル画像が使われ始め、ロンドン五輪の頃には、フィルムと判別すらつかない程にまでなっています。ニコンF6がデビューする2004年はアテネ五輪の年でしたが、報道現場の主力はデジタル化が浸透。F7は登場する事なくFシリーズも寂しく生産を終えています。
来年入社する新聞記者の卵たちが手にするカメラが何になっているのか?Zマウントの時代到来か?それともキャノンか?
もし明日にでも報道現場に遭遇したら記者のカメラにも注目してみて下さい。
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