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1960年 小公女、美しい淑女が誕生

学生たちが政府方針に反対して国中が大騒ぎとなった日米の安保問題。学生運動のさなかに犠牲者が生じたものの、日米安保条約がこの年発効し地位協定共々、十年の節目で自動延長されることとなり、今日に至る

日本全国の非電化鉄道網に革命をもたらす、ディーゼル動力の特急専用車両キハ81がデビューしたのがこの年。特急こだまのような赤とクリームのツートーンカラーで東北本線ほか、全国の幹線網に特急列車を広める役割を担った。

トヨタのクラウンに対抗すべく日産が放った5ナンバー枠いっぱいの2リッタークラス(1900)セダンは小公女=セドリックと名付けられた。大きくラウンドしたフロント・ガラス、後ろになびくように前傾したフロント・ピラーは50年代のアメリカン・ルックに倣ったもの。テール・ランプもクラウンのそれより大きく、先端のとがった形状はテールフィンの一部を形成したもの。クラウンと一目でわかる識別点は縦に並べられた4灯式のヘッドライト。これもアメリカンな雰囲気を溢れさせていたもの。これでクラウンに対抗できる日産の看板が出来、プリンス自動車のスカイライン共々法人向けからタクシー需要、自家用ユーザーまで広くカバーできることになった

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セドリックの販売店はブルーバードの日産店とは違い、後発の日産モーター店に委ねられる。のちにローレルやローレル・スピリットといった量販車を受け持つまで乗用車はセドリック一台に専念しなければならなかった。

初代では既存パーツの寄せ集めさながらだったトヨペット・コロナが白紙開発による新型に生まれ変わる。継続したのはタイヤが4本あることだけと広告で豪語するくらいの意欲作で、緩やかにラウンドしたフロントウィンドウにスピード感溢れるウィンドウ・グラフィックス、より良い乗り心地を追求した後輪サスペンションはカンチ・レバー式と言う凝った構造の複合システムだった。が、これが災いの元となってタクシー業界からクレームが続出し旧来の板バネに戻さざるを得なくなる。

三輪トラックで商用需要を担っていたマツダが軽四輪、それも乗用車マーケットに参入したのがこの年。V型2気筒のエンジンをリアに置き、2+2の4座は曲がりなりにも親子4人が乗れるスポーティーなクーペ・スタイルのR360.ラウンドしたリアウィンドウは、のちにコスモスポーツやサバンナRX-7にも繰り返し多用されるデザインモチーフでもある。2/4ドアの本格乗用タイプ=キャロルがデビューするまではこの軽量クーペがスバル360の刺客として活躍した。販売価格が安かったのも特徴で当時30万円という価格はスバルを大きく下回っていた。

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三菱からは、軽自動車枠を少し上回る500ccの小型車が生まれる。これは当時の国民車構想に即したもので排気量は軽の360よりも少し大きく大人四人乗りで時速100キロで高速巡行が可能という、フォルクスワーゲンの諸元にも似たスペックのクルマには政府から開発助成金が出るというものでこれに合致するクルマは少なかった。三菱500は軽四のミニカとは正反対にリア・エンジンで2ドアボディを後押しするのはスバルと同様、反面ミニカの方が大きなトランクを備えたほどだった。スバルの圧倒的人気には遠く及ばず、のちに600としてデラックス化を図るが花開くことなく次世代=コルト800を待つことになる。

二人乗りスポーツカー日産SP212にフェアレディの愛称が加わった、けれどもまだ需要の見込める北米向けで左ハンドルしか生産されていない。日本が本格スポーツカーの誕生を迎えるのは今しばらく後のことになるのだった・・・・

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