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ロックスターなら死んだ歳に、なぜ音楽を聴くか改めて考えてみた

9月20日で27歳になった。
20をピークに、年齢はただの記号に変わる。

 それでも27歳だけは特別だ。
 
「ローリング・ストーンズ」のブライアン・ジョーンズ、ジミ・ヘンドリックス、ジャニス・ジョプリン、「ドアーズ」のジム・モリソン、カートコバーン。みなロックスターで、享年27歳だ。才能あるロックシンガーは27歳で世界を去っていく。
ついに自分もその年齢に追いついたのかと妙に感慨深くなる。

なんで音楽を聴いているのか、ロックスターが死んだ年齢になって改めて考え直してみる。

かっこいい音に出会いたくて

25歳の時に子どもが生まれ僕は父親になった。
父親になった以上、ある程度は保守的にならなければいけない。
突拍子もないこと、人に眉を顰められるようなこと、自分の欲望をストレートにぶつけること、総じて家族を巻き込むようなことは絶対にNGだ。

”世間的に良い父親像”が自分の中にはあった。そしてそれとは別に”自分がなりたい父親像"もあった。

”良い父親像”とはコミュニケーション能力が高く、明るく、清潔、優しい人間を指す。
僕にはそれに反発したい気持ちがあった。誰もが思う良い父親になんて、なりたくなかった。賛否両論あるものの方が絶対に面白いという信念があり、世間的に良い父親像から逸脱したかった。良いか悪いかは別として、個性的な父親でありたかったのだ。

当時はコロナ禍の影響もあって、髭を伸ばしていた。賛否両論分かれる髭も、丁寧に手入れをすればそんなに嫌悪されない。しかし僕はほとんど手入れのされていない、言ってみれば薄汚い髭に憧れていた。そこにはグランジの影響が確かにあった。

僕は光より、影の方が好きだ。
ちょうどNirvanaの『Bleach』のジャケットのような、分かりにくくて曖昧でありながらも、確かにそこにある黒々とした影に惹かれる。

父親となった時、グランジのかっこよさ、オルタナティブの孤独に夢中になった。
浅い知識で『Nevermind』だけは知っていたNirvanaを検索窓に打ち込み、別のアルバムも聴いてみると、1stアルバム『Bleach』の荒っぽさと勢いに衝撃を受けた。

『Bleach』は1989年にサブ・ポップからリリースされた。サブ・ポップはアメリカを代表するインディーズレーベルで、そのロゴなどは現在でも街中でも良く見かける。邦楽好きにはthe telephones、yap!!!のフロントマン、石毛輝が良く着てると言えば伝わるかもしれない。

アルバムリリース時、カートはまだ22歳だった。
その若さでこれだけキャッチーなメロディーを拵え、それをあえて汚すような音像に仕上げてしまう。そこに22歳とは思えない嗄れたスモーキーな声が乗っかった時の格好良さといったら。
初アルバムの一曲目を飾る「Blew」は、バンドがツアーで継続的に演奏していた曲だそうだ。ライブを生で見ることは叶わないが、『Bleach』のちょっとダークで無骨な格好良さに何度も惹かれてしまう。



生き続けていく意味を知りたくて

“ロックスターは死んだ まだ僕は生きてる 悩み事なんて今日も 不安なら明日も”
今人気のバンド、SUPER BEAVERの『27』という楽曲のフレーズである。
ボーカル、ギター、ベース、ドラムという伝統的なロックバンド編成でありながら、彼らは自らをジャパニーズポップバンドとカテゴライズしている。そんな彼らがロックスターの死を題材に歌った。
 
楽曲で描かれているのは27歳で死んだ天才と、27歳になっても生き続けている自分の対比だ。



SUPER BEAVERはインディーズデビューをしてから割と早い段階でメジャーと契約している。その後はセールスの伸びや自身の活動などを考慮してインディーズに戻った。
数多くのライブをこなし、それもただ数を増やすではなく、一本一本、オーディエンスの独りひとりに向き合うような体温が感じられるライブだ。よく口にしていた「メジャー落ちバンド」の煽りも、全く悲壮感は無かった。むしろその言葉もひっくり返してしまう程の熱量があった。
そして2020年、再びメジャーにのし上がり、映画『東京リベンジャーズ』の主題歌を歌う。泥臭く美しいストーリーを彼らは描いていった。それは全部続けてきたからこそのものだ。どんな時も歩みを止めなかったからこそバンドのストーリーに厚みが生まれたのだ。
 

この曲で歌われている”生き続けていくことの美しさ”に、そして素直に生きることの眩しさに、僕は何度も救われてきた。淀みなく真っ直ぐできちんと自分の人生を歩もうと思わせてくれる。花が散る美しさが27歳で死んでいったロックスターにはあるが、27歳を超えても生き続けていく、ありきたりな人生も、間違いなく美しいのだと気づかされる。

音楽がある場所では、そういう筋の通った信念に出会うことが多々ある。
それがどんな音楽か人それぞれ異なるけれど、誇張表現ではなく、音と言葉によって、他人に生きる意味を与えてしまう凄い力が確かに音楽にはある。


タイムマシーンに乗りたくて



セブンティーンはもう10年も前のことかと、この曲を聴くたびに思う。立ち漕ぎで自転車を走らせ、ウォークマンで音楽を聴き、たまに有川浩の小説を読んだ。ついでに眠くないのに机で寝たフリをしたことも思い出した。
イントロを聴くだけであの頃の酸っぱくて苦い、レモンのような日常にすんなり戻れる。音楽にはタイムマシーンのような側面があって、あの感じが凄く好きだ。作者から離れて、その意思とは無関係なところな個人の中で、勝手に育っていってしまう、あの感じ。

窮屈な生活を送っていた17歳に戻ってみる。
思い描いていた27歳は凄く大人で、余裕もお金もあってスマートな人だ。


あの頃思い描いていた大人と、今の姿は全然違う。
17歳のまま、10年という年月だけが経ってしまった感覚。
3,650日の間に、いろんな経験を重ねてきた。はずだった。この年月で少しずつ大人になっているはずなのに、改めてBase Ball Bearのアルバム『十七歳』を聴いていると逆説的に全く成長していない自分に気付化されて少しだけ苦笑いしてしまう。

”傷ついて痛いかい? 気付いて欲しいのかい?”



27歳になっても変わらないこと


27歳になって、僕は僕以外の何者にもなれずに終わっていくことが、ようやく分かってきた。高校野球を見ても嫉妬のような感情を抱かなくなった。でも、何者にもなれなくても、音楽を聴くとこうして感じたことを書きたくなる。それは17歳くらいからずっと変わらない。
音楽を聴き、文を書き、また音楽を聴く。
他人からすればどうでもいいこのサイクルが、この先も抜け出せそうにない。
ここまで書いて、再び僕は再生ボタンを押す。

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