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【絵本的な物語の小説】今日のおさんぽ


「おはよう」
起きたらまず同居人に挨拶をするのが俺の日課だ。
同居人のアヤは朝が弱く、こうして無理やりにでも起こしてやらないと動こうとしない。
「もう少し寝かせて」とぼやいて寝返りを打つ。
カーテンの隙間から外を眺める。雲一つない快晴で今すぐにでも散歩に出掛けたくなってしまう晴れ渡った空だった。

耳元に近寄ったり呼びかけてみたり、ちょっかいを出してみてもアヤは起きようとしない。それどころか布団に潜ってしまう始末だ。なんて情けないんだと俺は呆れ果てる。

仕方なく、俺はアヤを置いて寝室を出て、リビングのソファーにだらりともたれた。

「おはよう、イチ」
少しすると同居人が目を覚ました。
俺は「おはよう」とややキレ気味に答える。
お腹が減って仕方なかった。

料理が作れないので、こうしてアヤが作ってくれるのを待つしかできない。アヤは情けないが、俺も俺で情けないのだった。

アヤは手際良く朝ごはんを出してくれた。
感謝の言葉も言わず、それを勢いよく口にかきこむ。

朝食を済ませ、2人で散歩に出掛けた。
俺にとってはこれが日課であり、仕事みたいなものだ。

今日はいつもは通らない道を抜けた。近くにある大きなマンションの影になっていることもあって、まだ午前中だというのに薄らと暗い。


少し行くと、経年劣化によってしっかりとくすんでいるピンクの外壁の家が見えた。小さめの庭に同じように薄汚れた犬小屋もついている。
通過しようとすると大型犬がけたたましく吠えかかってきた。

どうして犬はこんなに品がないんだろう。
ワンワンワン!!
俺は吠えかかってくる犬を無視してスタスタと歩く。
ワンワンワンワンワン!
なかなかしつこい。
俺に何か伝えたいことがあるんじゃないかという気がしてきて、耳をたて、メッセージを想像する。不思議なことに、次第に言葉が分かるような気持ちになった。どうやら彼らは「見かけない顔だな、名前はなんだ」と話かけているようだった。
どういう義理があって見ず知らずの人間、いや犬に自己紹介をしなければならないのか。
大体、この街の代表みたいな口振りも気に食わない。
2mほど距離はあるのに口の臭いがこっちまで漂ってきて目眩いがする。

「おい、聞こえてんだろ!そこのチワワ!お前に言ってんだ!」
犬は柵越しに騒がしく吠えて、そう伝えてきた。

チワワ…?
俺は周りに確認して、チワワが近くにいるのか確認した。しかしそれに当たりそうな生き物は見受けられない。
「…俺のことか?俺がチワワに見えているのか?」
俺は俺なりの言葉で、その大型犬に伝えようと試みた。
「他に誰もいねーだろうよ!お前はどこの誰なんだって聞いてんだよ!」
次第に耳が閉ざされていくような感覚になる。ここにいるのに急に俺だけ世界から切り離されたかのようだった。


家に着くと、アヤは俺に水を出した。
精神的なダメージは大きいけれど、へんに心配されても困るので、俺は平然を装っていつものようにガブガブと水を飲んだ。それで病院に連れて行かれる方が嫌だ。

水を飲んだ後、いつも座っているソファで横になる。アヤが買ってくれた小型犬用のソファもあるがしっくり来ず、人間が使っているものの方がよほど馴染んだ。

あまりにも人間と生活をし過ぎたせいか、自分のことが分からなくなっていた。
あり得ないと思うかもしれないが、そもそも自分が犬だと認めたくなかったのだ。

育ててくれた親の顔は思い出せず、ほとんどの世話を人間にしてもらい、育てられ、こうしてまた違う人に世話をされる。
上手く言葉に出来ない違和感を飲み込んで、犬であることを見なかったことにしていくうちに、見て見ぬ振りをしていることすら忘れた。
脳が拒否をしたのか、不都合な記憶は一切覚えないようになっていた。

アヤはソファで寝転ぶ俺の隣に座って、頭を撫でた。痒いところに手が届くような気持ち良さ。俺は思わず尻尾を振った。それから大きく欠伸をして眠る体勢に入る。
少しだけ眠りたかった。


気がつくと手の指は長く伸びていて肉球は無くなっていた。まるで今までそうしていたかのように、何の疑問も持たずに二本の足で歩き、鏡の前に立った。

そこに写っていたのは髪の毛が生えていて、人間の耳、犬の目、犬の鼻、犬のひげ、人間の口を持つ独特な生き物だった。
外に出ると、俺と同じく人間と犬がミックスされたような姿の生き物がちらほらといた。

電柱にマーキングをしている者がいれば、吠え合う末に殴り合いをしている者もいた。

そういえば、と思い立った俺はあの大型犬がいた家に向かった。
角を曲がって、しばらく歩くと忌々しいあの家が見える。
まずは遠巻きに様子を伺ってみる。犬小屋のなかには何もいないようだ。やはり同じ姿でいるのだろうか。
更に近づいてみると家の玄関にあたるところに、あいつがいることが分かった。

何故かあいつの姿だけは変わっていない。大型犬のままだった。自分の姿に比べて、毛並みも良く凛としているように見えた。

向こうは俺に気がついているようでじっとこちらを見つめている。


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次の日も俺は散歩に出掛けた。

「ほら、そろそろいくよ。イチ」

アヤがリードを引こうが何をしようが、
何故か電柱が気になって仕方なかった。

呼び止めてリードを引くアヤをまるっきり無視して、姿勢を低くして鼻を利かせ、丹念に臭いを嗅ぐ。まだ誰のものでもないようだ。
その時、嫌な気配を感じ取った。

「また会ったな、犬人間」

あの大型犬が若い女性に手綱を引かれて現れた。デリカシーに欠けているあいつのことを心のなかでデリーと呼ぶことにした。
飼い主同士は「こんにちは」と朗らかな挨拶を交わしている。

「そんな言い方しなくても良いじゃないか」
俺は落ち着いた声で言った。
「いやぁ、あれはおかしかった。今思い返して見ても傑作だね」
「すごく嫌なやつなんだな」
「ちゃんと話したこともないのになんで言い切れるんだよ」

「不快な思いをしたからだ。少しでも悪気があるなら謝ってくれ」
「なんでだよ、お前が小馬鹿にするような態度してたのがそもそもの原因だろ?」
その言葉に心当たりがないと言えば嘘になる。
「いいから謝れよ!」
「まずはお前からだろ!」

バチバチに吠え合ってる俺たちを互いの飼い主が引き離した。
剥き出しになった犬歯が、自分が何者なのか突きつけたきたようだった。


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聞き覚えのあるメロディーがテレビから聴こえ、台所にいたアヤが嬉しそうにテレビの前に戻ってくる。

日頃から良く見てるめざましテレビのコーナー、「今日のわんこ」が始まった。アヤの影響で一緒に見ることが多い。

頭では意味ないと理解していても画面に向かって吠えてしまうのは何故なのだろう。本能的なものなのかもしれない。
そして人間は俺たちへ勝手に心の声を入れるが、必ずしも本音と一致するわけではない。そのズレはまるで良く出来たコメディのようだ。

笑う準備をと、心と口元を緩めていると、次に映った画面に映った犬を見て驚きが隠せなかった。

真っ白な長い毛、顔のサイズにしては大きな瞳、湿った鼻、短い手足。どこからどう見ても俺だった。

テレビに写っている俺は懸命にキャンキャンと吠えて回っていた。
その姿は虚勢を張っている弱者そのもので、吐いていた暴言は「僕も食べたいワン!」とテロップがつけられていた。可愛らしい装飾がついだそれには何とも言えない気持ちになってしまう。
自分の目で見ている俺と、外から見えている俺はこんなに違うのかと愕然とした。

「今日も元気にはしゃぎ回るイチなのでした」とナレーションが入ってあっという間に終わっていった。


「イチー、散歩に行くよー」
やたらと機嫌の良いアヤに連れられて、外に出た。
トテトテと足音が聞こえてきそうなほど、俺の歩幅は小さく、アヤと同じスピードで歩くために懸命に足を動かした。

「イチ、今日は仲良くできるといいね」
アヤが俺に向かって意味深な言葉を放つ。俺は小首を傾げて、その瞳をじっと見つめる。

しばらくして、デリーがいる通りに差し掛かった。どうやらアヤはあの女性と仲良くなりたいらしかった。

そろそろ吠えてくるだろうという距離に近づいてもデリーは全く吠えかかってこない。
むしろ、しんと静まり返っている。散歩に行っているのだろうか。
俺もアヤも疑問を感じ目を合わせると、罪悪感を持ちつつもデリーがいる庭を覗き込んだ。

デリーは犬小屋で丸くなっていた。
体調でも悪いのだろうか。
「おい、どうしたんだ?」
威嚇という意味合いも込めて一言「ワン!」と大きく吠えてみた。

デリーはピクリともしない。
嫌な予感がしてもう一度吠えてみたが、動きは見えなかった。

アヤは見てはいけないものを見たかのように俺を引いて立ち去った。
気に触る奴とはいえど、これはこれで心配だ。
動悸が早くなり、それ以上は考えないようにした。



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最近、妙に心が軽い。
アヤが奮発してちょっと良いドッグフードを買ってきたくれたからだろう。
そう思っていたけれど、それを食べ終えてしまいドッグフードが元に戻った今でも続いているので、おそらく違うところに原因があるのではないかと踏んでいる。

今日も散歩に出掛ける。
少し風が冷たいけれど、春が近いことを感じさせる暖かい陽射しが気持ちいい。

以前にマーキングしておいた電柱の様子を見ることにした。前回つけた臭いはしなくなっているが、誰かの臭いがするわけでもない。
アヤに見つめられながら、俺はマーキングをする。しっかりと自分の存在を知らしめるように、なるべく高い位置から。

ようやく終わったその瞬間、アヤは手に持っていた水をその場所に掛けた。
珍しく飲み物を持ち歩いているなと思っていたが、まさか洗い流されてしまうとは。
俺はなす術なく、ただただアヤを見つめる。
悲しくて悲しくてとてもやりきれない。
アヤは「ごめんね」と苦笑いをした。

住宅街を抜け、大きな河川敷に出た。
アヤは俺のリードを外した。今日の目的はここにある大きなドッグラン。俺にとって生まれて初めてのドッグランだ。

犬たちは気持ちよさそうに走り回っている。喧嘩する様子なんてまるでなく、各々が自分の走りに夢中になっているようだった。

急にどうして良いのか分からなくなり、一先ずやや遠慮がちに走ってみることにした。





更にスピードを上げる。体全体の筋肉を使って全身全霊で走ってみる。今まで感じたことのない解放感に包まれた。風になるとはこのことか。
足を前に出すだけなのに、こんなに自由で清々しいなんて。生まれ変わったような気分だった。

最近感じていたこの晴れ晴れとした気持ちは、自分を受け入れたことによる解放感なのだと、疾走する中で気がついた。

外から見た自分の姿を知ったこと、良くも悪くもあったが、デリーの言葉で現実を受け止めざるを得なくなったことが重なり、自分の心に折り合いがついた。マーキングもドッグフードも走ることも、犬の世界の魅力は意外と多く、考え直してみれば案外悪くないものだった。


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今日の散歩は珍しく夕方だった。
今日はアヤの予定が忙しかったのだ。午前中にする散歩の方が清々しくて好きなのだが、オヤツを多めにくれると約束してくれたので受け入れることにした。

河川敷から見る夕陽は真っ赤で綺麗だった。漂ってくる切なさは普段あまり感じたことがない感情で、受け止め方が分からない。
ふと、あの日以来姿を見ていないデリーのことを思い出した。胸の奥が痛くなるような不思議な感覚。夕陽は綺麗だが、この切なさと向き合うことはあまり好きではないのかもしれない。

突然、「ワン!」と鳴く声がした。
驚いて振り返るとデリーがこっちに向かって歩いてくるのが見えた。

「よぉ、久しぶりだな」
デリーがゆっくりと歩きながら言う。

驚きつつも、俺は声をかけても反応がなかった日のことを話した。
デリーによると、どうやらただ眠っていただけらしかった。耳の調子があまり良くなく、寝ている最中はほとんど何も聞こえていないと言う。

あたかも今まで親しかったかのような変な空気
だった。デリーの気持ちは分からないが、同種族の生き物だという心境の変化が、デリーを受け入れるきっかけにもなっているのかもしれない。

ペラペラと話していたデリーの言葉が、突然止まった。
夕陽で伸びた影を見て、この時間の散歩も良いなとふと思う。
飼い主同士は親しげに立ち話を広げている。


しばらくして、デリーは歯切れ悪くそうに口を開いた。
「あの時は悪かったよ、ひどいこと言ってしまって。あれでも仲良くしたくて親しみを込めたつもりだったんだ」
予想外の言葉に何を返せばいいのか、即答できなかった。
俺も辿々しくなりながら答える。
「こちらこそごめんな。先に気分を悪くさせたのは俺の態度に問題があったからだ」

アヤと女性は2人ともスマホを取り出してやりとりをしていたが、それも終わったようでバイバイと挨拶を交わしている。

俺は別れ際に声を張り上げて鳴いた。
「名前、名前はなんて言うんだ?」
「ハジメだ!」
吠え合う俺たちを見て、互いの飼い主は喧嘩を始めたのだと勘違いをして、無理やり各々の帰路に歩み出した。

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いつものように今日も散歩に行く。
春一番と呼ばれる強い風が吹くと朝のニュースで言っていた。

河川敷は風が強いからと、いつもと違う散歩コースを歩く。
最近新しい散歩コースに取り入れられたこの道はハジメの家を通過するコースだ。

俺はハジメに向かって挨拶をすると、ハジメも返してくれる。今日も一日が始まった。
「おはよう!」
「おはよう」

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