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1.5歳、楽しい育児生活に少し疲れただけ

ヒナは今月7日で一歳5ヶ月になった。

ここ最近は怒ってばかりでなんだか少し疲れてしまった。

正確に言えば、ばかりというわけではない。一緒に遊ぶ時間もその分増えているけれど、今回は敢えて"疲れる"部分にフォーカスして書きたい。

 

ヒナにはすっかり自我が芽生えている。まだ言葉は喋れないけれど、嫌なものを嫌というだけじゃなく、好きなものは好きと伝えられるようになった。

が、その度が過ぎている。好きというより執着に近い。

ウイダーみたいなゼリーが大好きで、夏の間はよくあげていた。それをほとんど一息で飲み終える。すると、おもむろに冷蔵庫に近づき指を指す。

言葉が分からなくても彼女が「次を出せ」と言っているのは明らかだ。

キリがないのであってもあげないけど、凄まじい勢いで泣く。号泣とはこのことをいうのかと思うほど泣く。

 

親が折れて好物を出すか、子が折れて諦めるか。側から見ればただの我慢比べのようである。

が、その我慢比べもかなり気力を消耗する。

密室で意図しない大声を出されるのはかなりストレスだし、近所迷惑かとも心配してしまう。出来れば放っておきたい。けど、なかなかそうもいかない。

 

3度の食事もそうだ。

最初のうちはちゃんと食べてくれるが、途中から飽きてしまうのか食べ物で遊び出してしまう。お腹いっぱいなのかと思って下げると「まだ下げるな」と泣き出す。

掃除を楽にするために床に引いたレジャーシートの上にはぐちゃぐちゃになった食べ物が散乱する。

普段なら笑って片付けられるのに時々、スイッチが切れたように全て嫌になる。

こんなこと絶対に形に出してはいけないのだけど、食べこぼし飲みこぼしを片し、お願いを全力で拒否される生活が後何年も続くのかと思うと「面倒くさいな」と思ってしまう。

それを子どもに悟られないようにしなければならない。

本当はそんなこと思わなければそれが良い。しかし、いちいち怒っていたら疲れてしまった。

その結果、こうして形に残している。

 

怒ると叱るには、相手のためを思ってのことか、ただのストレス発散になってはいないか

が境界線である。

自分やっているのは「叱る」なのか、考えてみると必ずしもそうだとは言えない。

本当に情けない話だが、自分を保つために怒っている可能性を否定できない。

だから叱るではなくて怒ると表現した。自分でも良くわかっていないということは、きっと怒ってる方が大きいのだろう。

 

これまでの人生、ライブが生きがいに近いものだった。映画館に行ったり、部屋で大きな音で音楽をかけたり、旅行に行ったり、友達と飲み会をすることもストレス発散だった。

多くの人がそうであるように、このコロナ禍によってそれらが軒並みできなくなった。

その上で、今まで経験なんてしたことない赤子との同居が始まった。その同居にも、精神的に育てるという新たな作業が追加される。

ストレスの発散場所を失い、ストレスを生む場所が増えた。借金をしているような感覚で、ひどく息苦しい。

言い訳が止まらなくなりそうなので、話を戻す。

前述したけれど、もちろんヒナと一緒にいて楽しいことも嬉しいことも山ほどある。育児が嫌いなわけではないので、それは分かってほしい。

 

例えばヒナが悪いことをして怒ってしまった場合、泣かれると嫌悪感や罪悪感に襲われる。

怒らずにいれるならそれが良い。でも難しい。

このやるせなさを抱えるのが子育てのカルマなのかもしれない。

ヒナのイヤイヤ期が深まるにつれて、どんどん過酷になっていくだろう。
なかなかどうしていったら良いのやら。

 

ところでヒナは切り替えが早い。

さっきまで怒らせた人のところに、笑いかけたりする。あまりに早くて、こっちの感情が追いつかない。こっちはヘソを曲げているのに、ヒナの笑顔につられてこっちまでなんだか笑えてくる。怒っていたのがバカらしく思えるほどだ。

そんなことが起こるたびに、ヒナの切り替えの早さは見習わなきゃいけないなと常々思い知らされるのであった。

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