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隣人の歌声

逃げ出すように実家を出て一人暮らしをはじめたアパートは、とても壁が薄い。それは引っ越した当日からわかっていた。隣の部屋から女性の笑い声が聞こえてきたからだ。このアパートはとても二人暮らしできる広さではない。だからその日はたまたま隣の部屋に女性が遊びに来ていて、声が聞こえてきたのだろうと考え、寝た。実際にはこの女性のほうが隣の部屋の家主だったのだが。

あれから数ヶ月が経った。私はどれくらい部屋の壁が薄いかを人に伝えるとき、「隣の部屋からイビキが聞こえる」と言う。具体的には、隣の部屋の家主の恋人のいびきがごく普通に聞こえる。なので私は、彼のことをイビキデカ男と呼んでいる。短絡的なあだ名だ。というのも、そもそも隣人自身が、とんでもなく喘ぎ声が大きい喘ぎ声デカ美なのである。だから対になるよう、恋人もイビキデカ男と呼んでいる。
週末、デカ男がデカ美のもとに訪れる。そして、彼らの好きなタイミングで(昼夜の場合もあるが、多くは朝だ)営みを始める。私の部屋にはデカ美の「すごい」「きもちいい」「やばい」等の発言を含め、啜り泣くような嬌声が聞こえてくる。最初の数回こそ面白がっていたが、続くとストレスになる。ストレスになると、彼らがセックスをしていなくとも、ちょっとした笑い声を上げたり、足音を立てて歩いたりするだけでも苛立つようになる。デカ美はひとりのときは非常に静かだが、デカ男がやってくるとはしゃいだ声を上げ、喘ぎ声を出す。
それは先日のことだった。日曜日が儚く消えようとしていく23:30頃、隣の部屋から歌声が聞こえてきた。デカ美とデカ男が、なんと声を合わせて歌を歌っているのである。なんの曲を歌っているかは定かではない。特段うまいとは思わなかった。かといって下手かどうかもわからない。例え彼らがプロ並に歌がうまくとも、そのときの私の苛立ちは変わらなかったであろうが。
私は読書していた手を止め立ち上がると、思い切り音を立てて窓を閉めた。瞬間、少し音量が下がる。だが、デカ美とデカ男は歌うのをやめなかった。

アパートの管理会社を通じ、既に複数回デカ美には喘ぎ声を抑えるように伝えている。確かに私はデカ美に歌うなとは言っていない。だがそもそも伝えたあとでも喘ぎ声は聞こえているので、単純にデカ美とデカ男には恥という概念が存在していないものだと考えている。
今日はデカ男が来ていないのか、隣の部屋はごくごく静かだ。だが私は毎日、デカ美とデカ男の破局を真剣に祈っている。これは僻みなのだろうか。歌声さえ許せない自分の心の狭さにも腹を立てつつ、こうして壁の薄いアパートで文章を書いている。
もしもこのnoteを見たカップルの片割れがいたら、隣人にセックスの際の声を聞かせるのは辞めるようにしてほしい。あれはよほどえっちな好奇心がある人間以外ストレスを感じるものだから……。

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