「立読(たてとく)」
読書家、もしくは、活字中毒と自称する人たちの口からよく聞かれる単語の一つに「積ん読」がある。
「積ん読」
本を買ったけれど、読まないまま、積んである状態。それも、単数ではなく、かなりの量になっていることを自虐も込めて表現しているようだ。
それでも、聞くたびに、微妙な気持ちになるのは、そこに自慢のような気配があると感じるだけでなく、仲間内言葉のニュアンスがあって、本を読み始めるのが中年以降だという自分の遅さのために、そこに入れない感覚と、あまり本を購入できない経済状態である自分のひがみも入っていると思う。
その一方で、「積ん読」にも価値があると主張する人もいて、確かに、表紙だけ見てても意味はある、といった言葉も聞いたこともあったから、今も本は、ただの物質ではなく、そこにさまざまな意味合いも付いてきているとも感じる。
これから「紙の本」が減っていくとすれば、さらに違う意味も加わりそうだ。
橋本治
ほとんど本を読まなかった若い頃から、橋本治の本は、比較的、読んでいた。読書の習慣がついてからも、ずっと読み続けられたのが橋本治だった。
だから、新しい元号になる前に亡くなったのは、ショックだったし、この時代についてどう考えるかを、もっと読みたい著者だったから、やっぱり残念だった。
その一方で、当たり前だけど、大人になったら、自分で考えなくてはいけない、と改めて言われるような気持ちにもなった。
立読
橋本治が、生前、あちこちでずっと書いているのに、まだ終わらない、といっていた作品があって、それが未完成のまま単行本化すると聞いた時は素直に楽しみだったけれど、それが形になって、1万円をこえる値段だと知った時は、少しためらったが、珍しく思い切って買った。
家に着いた。思ったより大きかったし、重かった。
一冊で、どこに置いても自立した。
どれだけの時間がかかるのかと思うと、情けないけど、まだ怖くて読み始められていない。
だから、部屋の隅に置いてあるままで、これは「積ん読」ではなく「立読(たてとく)」だと思った。
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