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「エンターテイメント」と「アート」

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アニメやアートや映画やドラマや音楽やイベントなどについて、書いてきた記事や、これから書いていく文章をまとめていこうと思います。
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#推薦図書

『帰ってきた橋本治展』に、やっと行けた ------県立神奈川近代文学館。(2024.3.30~6.2)

 とても熱心なファンがいるのはなんとなく知っている。さらには、研究対象として読み続けている人もいる。まだ読んでいないけれど、そうした本が出ているのもわかっている。 橋本治 あれだけ膨大な作品を残している橋本治という人に対して、何かを語るには能力も、思いも足りない気がしているのは、noteでも、こうした本気の人がいるのも知っているせいだ。  だから、橋本治のことを書こうとするときに微妙な後ろめたさと恥ずかしさがあるのだけど、それでも、細々とながら長く少しずつ読んできた。読書

『少女たちのお手紙文化 1890-1940展』------「思いの遺産」。2024.1.20~3.24。町田市民文学館ことばらんど。

 初めて、東京町田市の「ことばらんど」という場所に行った。  そこで、切手デザイナーの講演会があるので、企画展が始まったばかりの時に、行けた。 少女たちのお手紙文化1890-1940展 〜変わらぬ想いは時を超えて 施設は、入り口の印象とは違って、中は広く感じ、階段を上がると、その途中の壁に「最後のお手紙を書いたのはいつですか?」という文字がある。それを見て、確か先週に知り合いに、手書きではないけれど、手紙を書いたことを思い出す。  この企画展がおこなわれた理由も説明され

「考え続けざるを得ないこと」--------『ケアと利他、ときどきアナキズム』第7回。

「ケアの倫理とエンパワーメント」を読んで、過去の文学作品も、視点を変えれば、違う読み方もできるし、それは、「ケアの倫理」が大事にされる世の中に近づくかも、というようなことを思えて、その著者である小川公代氏が特別ゲストとして、これまで、この講座を続けてきた近内悠太が対談のような形式をとってくれるというので、行きたいと思っていた。  当日まで行けるかどうかも分からなかったけれど、何とか出かけられそうだったので、会場になる隣町珈琲にメールで問い合わせたけれど返信がないので、電話を

影響の受け方の種類。

 明らかに強い影響を受けてきたのに、それに気がつくのは、とても長い時間が経ってからのこともある。それは、実は、ずっと見ていたのに、視線が真っ直ぐに向けられていなかったせいかもしれない。 大阪万博 1970年の大阪万博のときは、小学生だった。  どうしてだかわからないのだけど、万博に、すごく興味を持ってしまった。  それまでに、テレビで「ウルトラマン」があって、そのあとに、アポロが月に着陸し、ただでさえ子ども心は、盛り上がっていたのに、そこに拍車をかけるように、大阪万博は

『映画「教育と愛国」上映&トーク』が、立教大学で開催された。

 以前、「教育と愛国」の本を読んだ。  自分には子どももいないせいもあって、気がついたら、学校がこんな風になっていることに、驚きと怖さもあったが、元々は、テレビのドキュメンタリーで、それが映画になっていたのも知っていたが、コロナ感染者数が多いので、怖くて映画館に行けなかった。 映画上映会&トーク そんな、行きたかった気持ち自体を忘れる頃、ラジオから「教育と愛国」という言葉が聞こえてきて、映画を上映すると知った。  それは、立教大学での催しで、社会学部のゼミが主催している

『大竹伸朗展』-------「世界」を集め続ける人。

 もう20年以上は作品を見てきて、辛い時も気持ちを支えられてきたように思っているけれど、作者本人・大竹伸朗は、50年も、とにかく作品を作り続けている。 作品 作品に、違和感があって、ゴミのようなものが固まっているだけにも見えることがあって、だけど、間違いなく、何か違うものに見えるのは、どうしてだろうと思ったりもするし、わかりやすく美しいとか、癒されるというものでもないけれど、見ているうちに、何か少しずつ影響を受けて、自分も知らないところで変わっていくような気がする。  そ

本で読んだだけなのに、30年以上覚えていた北野武監督の2つのエピソード。

 特に、ベネチア映画祭で金獅子賞を受賞する前は、映画館が空いていた印象があったのが北野武監督の作品だった。  だけど、「この男、凶暴につき」を見てから、日本の映画界ではとても気になる監督になっていて、それほど映画好きでもないのに、そして、貧乏だったのに、何本かは映画館で見ていて、だけど、それは北野武監督のキャリアから言えば、まだ初期のころだった。  さらに、映画に関する本を出して、それを読んで、すごく感心した記憶があって、中でも2つのエピソードは、そのころ、文章を書く仕事

「立読(たてとく)」

 読書家、もしくは、活字中毒と自称する人たちの口からよく聞かれる単語の一つに「積ん読」がある。 「積ん読」 本を買ったけれど、読まないまま、積んである状態。それも、単数ではなく、かなりの量になっていることを自虐も込めて表現しているようだ。  それでも、聞くたびに、微妙な気持ちになるのは、そこに自慢のような気配があると感じるだけでなく、仲間内言葉のニュアンスがあって、本を読み始めるのが中年以降だという自分の遅さのために、そこに入れない感覚と、あまり本を購入できない経済状態で

「恩人」の存在を、26年後に知った話。

  2022年に出版された書籍の表紙の写真を見て、その作品をつくったアーティストも、どこで見たのかも、瞬時に思い出した。 「TOKYO POP」   表紙の作品は、奈良美智が作者だった。この作品が設置されているのは、平塚市美術館。それも1996年のはずだ。  それだけはっきりと覚えているのは、この書籍の表題となっている「TOKYO POP」という展覧会は、自分にとって、それまでほとんど興味がなかったアートというものに対して、突然、距離を縮めてもらい、それから自分にとっては

「ブーム」は、どれだけ盛り上がっても、必ず去ってしまうことを再認識して、少し寂しくなった。

バッティングセンターについて書かれた本を読んだ。 バッティングセンター 必ず1回は行ったことがあって、だけど、今も頻繁に行っているわけでもないのに、やけに身近に感じながら、いつでもあるような気がするのが「バッティングセンター」なのだけど、それが、こんなふうにいろいろな状況に影響されながら、2回もブームがあったことを、まずは、本当に知らなかった。  よほど注意深いか、そのことに関心がない限りは、外に並ぶ行列などを見て「あ、流行っているんだ」とチラッと思うくらいなのだろうけど

ドラマを見て、「専門性」と「当事者性」と「総合知」を考えた。

 ここのところ、毎週見ているドラマのうちの一つが、「イチケイのカラス」で、登場人物に実際のモデルがいると知り、勇気づけられる部分もある。  一緒に見ている妻は、毎週のように涙しながら見ていて、私も基本的に面白く、興味深く見ているのだから、有難いと思っている。 医師の言葉  裁判官が主人公なので、その舞台のかなりの時間が法廷になる。  そして、そこで様々なドラマが生じるのだけど、本筋とは違うのだけど、補強の材料としての言葉として、5月31日放送回で、医師が証言台に立つ場面が

「ポッドキャスト」に教えてもらったこと。

 個人的に、一番多くの時間、「ポッドキャスト」を聞いていたのは、介護をしている時で、自分のiPodが元気な時だった。食器洗いをしている時に聞く機会が多かった。今から8年くらい前だと思う。  ポッドキャストは、自分の中では、聞く時間を問わない「ラジオ」のような位置づけだったが、同時に「ラジオ」と違って、発信者にとっては、始めるハードルが低いようで、独自な色も強い印象がある。  ポッドキャストで始めて、ラジオ番組にもなっている「東京ポッド許可局」は、新鮮だったし、今まで自分に

駅の中の、無意識の「作品」

 見出しの写真は、駅の構内です。  工事か、修理か何かの時に、おそらくは、実用で書かれた数字や記号で、この役割が本当は何かも分かりませんが、時々、このように「作品」のように、(あくまで個人的には)カッコよく見えて、写真に撮ったりしています。  これは、自分がアート、特に現代アートに興味を持って、見るようになってから、そんな感覚になったというか、大げさにいえば世界の見え方が少し変わったようです。  特に大竹伸朗というアーティストの作品や見方に、かなり露骨に影響を受けているよ