午前3時まで眠れなかった

 アルバイトしている中華店。背の低い小太りの店主に、わたしは怒鳴っていた。数人の客が、狭い店で息を潜めてこちらを見ている。わたしはここでアルバイトをしている。他にバイトはいない。カウンターに座っている細身の女性がなだめようとするのを睨みつけて、店主に向き直る。店主は贅肉で膨らんだ白い胸と腹を揺らしながら、顔を真っ赤にして太い指で白帽子を握りしめていた。油っぽい髪が頭皮に張り付いている。

「セクハラでしょう! 胸触ってきたじゃないですか! 痴漢ですよ!」

わたしは近づいてきた店主の胸を突き飛ばして距離を取る。アワアワと弁解しようとする店主に更に畳み掛ける。

「もううんざりです! こんなまずくて最低の店、きょうでやめます!」

 店主が引き止めるのも聞かずに、わたしは戸を開け放って飛び出した。外は暗くて、空気がひんやりしている。申し訳程度の主張をする獣道で、横からは名前も知らない草が伸びており、膝をくすぐる。こんなに荒れているのに、何軒も民家があるのだ。小さな家がみっちりと立ち並ぶ左手には細い道が続いており、ぼんやりと橙色に光っている。この道には行ったことがない。わたしは帰らないといけない。

 草の道を踏み分けながら、夕方来たはずの道を進んでいく。目の前は崖になっていて、右に進むと砂漠のような山がある。草地と砂漠の居所が無いような隙間で、砂漠のルールを思い出した。

 右の崖には大きな山のような鬼が住んでいる。見つかると長い腕を伸ばして掴んでくる。静かに通れば眠ったまま。気をつけて、急がないと。

 砂漠に踏み入る。次第にあたたかい砂はサァッと軽い音を立ててわたしの靴を徐々に飲み込んでいく。歩きづらい。壁面につま先をめり込ませるように引っ掛け、峰に登っていく。程なくして登り切る。見た目ほど大したことないな。額の汗をぬぐってひと息つくと、十数メートル先に黒い塊がモゴモゴと蠢いている。

 子熊の群れだ。しまった、忘れていた。左の砂漠の山には熊が住んでいる。6匹の子熊とシングルマザー。崖の鬼に見つからないようにこの砂漠を越えるには、砂漠の峰を通るのがいい。熊も同じことを考えている。子熊に見つかると母熊を呼ばれる。母熊が来ると……。

 子熊は早速わたしに気がついてしまった。わたしが居る峰の反対側からシャクシャクと音がする。恐る恐る覗き込むと、砂の山の下から黒い塊が登ってきていた。

「お母さん、来ちゃうね……」

 走るしかない。峰を走る。砂に足を取られて走れない。やば。母熊も同時にわたし目掛けて走り出した。

「はぁっはぁっ……無理!」

 砂の斜面を崖の方に転げ落ちる。鬼がいるのに! 山に切れ目が入り、近くの街の灯で目が光る。大きな充血した目。地響きのような音がして、木の幹のようにゴツゴツした腕が伸びてきた。見た目によらず俊敏に掴みかかろうとしてくる。

 ハッとしてわたしはスマホを取り出した。なんで忘れてたんだろう、転送機能。今こそ使い時やん……。どこでもいい! できればそこに見えてる近くの街に飛ばして!!

 助かったぽい〜!

 座りこむ。太ももにひんやりした石畳の感触。通行人は少ない。街の入り口だからかな? 飲食店や宿がありそうな市街地はもう少し先のようだ。遠くであの地響きがした。もうあそこを通りたくないな。

「もし……」

 しゃがれた声がして振り返ると、小さな老婆がいた。紫色のベールを被り、口元は橙色のスカーフで隠れている。日焼けした黒い肌に浮かぶ小さな黒目がちの目は、わたしの背後の市街地の光で妖しく光っている。ジャラジャラとビーズのアクセサリーをつけた手で招かれる。

 何故か抵抗できず歩み寄ると、屈むよう手で合図され屈む。ネックレスをぎゅっと掴まれる。

「貸しな」

 銀色のネックレスを外して渡すと、老婆は小さなクリスタルのような丸い珠が繋がったチェーンを巻き始めた。直感的に浄めだと感じた。

 老婆は高笑いして、橙色のスカーフを外す。下顎が無い口元はくすんだ肉の穴が大きくぽっかりと空いており、老婆はにやりと笑うように上唇を曲げた。スカーフを戻すと、わたしのカバンからハムを奪った。

「私は頭がおかしいよ。でも本当に頭がおかしいのはこの世の中だよ。頭がおかしくないとやっていけない」

そう言い残すと、老婆は物陰に消えた。



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