変わった自分を見てくれ大会
気がつくと年末感を漂わせる特別番組が長方形の装置から放送される時期になった。ついこの間まで、いつになったら冬が来るのか、と思っていた気がするのだが、気温を気にかけてみるとそれは時折マイナスを示している。木々も葉をすっかりと落とし切り、枝の隙間から灰色をくっきりと見せつけてくる。ちょっとした用事で最寄りのコンビニに行く時にもアウターを着込まなければいけないから面倒。だが、外気とのコントラストで温泉がより一層気持ち良く感じられるように、心身を温めてくれるものがどこにあるのかを確かめやすいから一番好きな季節。
年末恒例の行事として、同窓会を兼ねた忘年会がある。毎年30日に中学、高校の同級生10名ほどと地元で会い、1年間の出来事やどうでも良いお互いの恋愛事情などを語り合う。高校まで同じだった友人などはその後大学に進学し、そして大学院まで進学するといった自分と同じような進路を歩んでいるため今後のキャリアの意見交換の場として有益なことはあり、また一方で大学院には進学せずに就職した友人などから聞く話はそれはそれで興味深いものがあった。とは言ってみるものの、内心では、社会から求められている人間として生き方に疑いを持たず、それに従い、ありきたりな人生論を振りかざす友人たちをどこかで見下し、その反面、それをすることさえ自分のような不適合者からしてみれば称賛に値することだ、と、軽蔑と尊敬の間で揺れ動いていた。自分を偽って参加する飲み会ほど嫌なものはない。
今年も招待のLINEメッセージが来た。大学院を休学し、レールから外れた人生を歩もうとしている自分が参加して、話すことなどあるのか。お互いに悪い影響を与え合う気がしてならない。そもそも、昔から知る友人である、という付加価値がなければ一緒に安い居酒屋に言って話したくなどないのだが、誘いを断る良い言い訳も考案できないので、今年も参加することにした。
去年の話をしてみる。誘われたので参加することにしたのだが、主催者とその友人二人は不参加になった。というのも、当日の午前中に交通事故を起こしたためだった。突然ぐしゃぐしゃになった自動車の画像が一時的に開設されたライングループに送られてきて、事故を起こしてしまい今警察と話をしている、そしてこの後病院に行く、だから忘年会には参加できない、との旨の説明文が程なくして付け加えられた。最初はタチの悪い冗談かと思ったのだが、それは本当らしかった。送られてきた画像の端に見覚えのある友人が写り込んでいた。忘年会を中止する声もあがったが、当該三人が大事に至らなかったということもあり、せっかく予定を開けていたということもあり、そのまま開催する運びとなった。
集合時間よりちょっと遅れて居酒屋に着いた。すでに他の参加者たちは店内にいて、迎えられる形になってしまい気まずかったのだが、一番端の席につけたのは救いだった。真ん中の席に座ってしまったら、バランスを見て左右の会話に参加するという苦労が必要だと思った。
近況報告をし合う。機械学習とデザインに関する卒業研究を行なっているらしい。不動産関係のベンチャー企業で働いているらしい。中学校で数学を教えているらしい。
中学、高校時代の思い出話に花が咲く。中学の時の社会の先生のモノマネで笑いを取っていた。中学の時の国語の先生と保健の先生が結婚したらしい。高校の時の同級生が学部を変えて大学に入り直したらしい。
アルコールが回ってきて恋愛の話になる。バイト先で出会った人と付き合っているらしい。バイト先の年下とワンナイトをしたらしい。マッチングアプリを使っているらしい。
そしてアルコールが回った上で、それぞれが溜め込んできたエピソードを年一回の再開の場で披露する。変わった自分を見てくれ大会が始まる。アルコールが回っていたからか、記憶する必要がないと脳が判断したからか、内容はあまり覚えていないが、楽しかった。
時間という感動生成器。異なる人生を歩む中、平等に与えられるものは時間だけだ。一緒に過去を振り返る。知らない過去を教え合う。その過去が長い時間であればあるほど、時の経過を痛感させられ、その痛みが多分感動の由来するところなのだろう。
年末になるとどうしてもセンチメンタルなことを考えたくなるのだろうか。「感動とは」「温かさとは」「友情とは」といったテーマが頭の中で常に飛び交っている。だから、あまり行きたくないと思っていたはずの忘年会も楽しみになってきて、ワクワクして行きたくなるのである。
どうか今年は、事故とか病気とかで欠席する人がいなければいいな。
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