ありもしないノイズキャンセリング機能が働く
勤務中にBGMを聴いている。ただし、ずっとではない。
高い集中力が求められる仕事は、自然と集中できる午前中、出勤打刻をしてから直ぐ取り掛かるようにしている。そして、それが完了、若しくは完了する目処が立ったら昼食に行く。
その昼食から帰ってきて、眠くなったり、どうにも集中力を発揮できそうもなくなったりした時に初めてパソコンでBGMを流し、それを片耳イヤホンで聴きながら作業するのである。
音楽が流れているとノッてくる。黙々と作業することができる。いつの間にか5時間くらい経っていて、気づけば退勤の時刻になる。
両耳イヤホンではなく、ヘッドホンでもなく、況してやノイズキャンセリング機能付きの諸々でもなく片耳イヤホンである、というのは、電話や急な打ち合わせに直ぐに対応できるように、である。片耳で音楽を聴くというのが聴力に悪影響なのではないかと一度調べてみたことがあったのだが、音量に気を付けて、時々左右付け替えるようにしていれば問題がなさそうだということで、続けている。
片耳イヤホンだから周囲の音は常に聞こえている。だけど、思いがけず聴き入ってしまう曲にふと巡り合うことがある。そんな時、ありもしないノイズキャンセリング機能が働いている気がして、静寂の中でただその曲だけが聴こえている。
昼食は職場から徒歩3分程の所にある中華料理屋に通い、殆ど毎日そこで食べている。コスパが良い、メニューが豊富、喫煙所がある、キャッシュレスで支払いができる、と、最高の条件が揃った店である。
彼此一か月以上が経ち、店員の方に晴れて常連客と認定してもらえたのか、会計時に「ありがとうございます。」で通常終わるところに「いつも。」と一言付け加えてもらえたのがつい昨日のことだ。とても嬉しかった。店を後にするとき、よりしっかりと「ごちそうさまでした。」と言おうと思った。
相手から名前で呼ばれたときに嬉しく思う現象を心理学的に「カクテルパーティー効果」と言うらしい。今回の場合、言うまでもなく僕の名前は「いつも」ではないものの、集団の中の一個人として自分を認識してくれているということが伝わったからこそ、嬉しく思ったのかもしれない。
「行きつけの店」というものに漠然とした憧れがあり、いつかおじさんになったらこれを持ちたい、できればそれは中華料理屋が良い、ということを思っていた。行きつけといえば中華料理屋だろうというステレオタイプがなんとなく出来上がっていた。
それが叶ってしまった今、僕はもうおじさんになったのかもしれない。
「自分おじさんだな、」と、実際のおじさんはどんな時に思うのだろう。
単品の酢豚と一本の瓶ビールを昼食にしながら、壁掛けのテレビが映し出すワイドショーに釘付けな自分をふと客観視してしまったときであろうか。
わずかに雨が降っているときにハンドタオルを頭にちょこんと載せ街中を闊歩する自分の姿を、通り過ぎ行く建物のガラスの向こうに見たときだろうか。
昔懐かしの曲を久しぶりに聴き、思い出される過去の思考と記憶を現在に引き継いでみたとき、感情がぐわんと揺さぶられてしまったときだろうか。
最初の2つは日頃のおじさん観察の中で、おじさんっぽくてかっこいいな、あるいはかわいいな、と思った直近の経験に基づく推測だ。
だが最後の1つは、自分のことに他ならない。
いつものように片耳イヤホンで音楽を聴いていると、懐かしい曲が流れてきた。それはアンジェラ・アキの「手紙 ~拝啓 十五の君へ~」だった。
中学生の時、学内の合唱コンクールで他のクラスが歌っていた。その当時、いい曲だな、と単純に思っていた。そして同時に、「拝啓で始まるのに、どうして終わりの敬具がないんだ。」と相変わらずどうでもいいことを思っていた。
イントロでそんなことを思い出していると、歌がはじまった。
あまりに感動しすぎて涙がこぼれそうになった。
歌詞が凄まじく心に響いてきた。
この曲は15歳の「僕」と未来の「僕」との手紙のやりとりを歌う。青春の真っ只中で悩み苦しむ「僕」が未来の「僕」に救いを求めて手紙を書く。未来の「僕」は、大人の僕も悩み苦しむことがあると寄り添いながら、自分を信じて歩み続ければいい、夢を大事にしよう、と励ます。
おじさんになったなと思う一方で、過去に抱いた悩み苦しみに繰り返し苛まれることがある。そしてそんな時も、過去の自分を肯定してあげたいと思う、その過去からしたら未来である、現在の自分が同時に存在している。
多分この曲は、今後いつだって僕を励ましてくれそうだと思った。
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