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門前の小僧:男性学

周司あきらさんから、雑誌エトセトラの最新号が送られてきた。
特集タイトルは『男性学』
あきらさん編集の下、様々なバックグラウンドの人が男性学をテーマに寄稿している。
そもそも、男性学とはなんであろうか?
その前にまずは、1970年代に起きたウーマンリブという社会運動を学術的に読み解こうとした『女性学』の観点が必要だろう。
女性学とは、古典的な女性像を廃した中でみえてくる女性とは何か=自分とは何かを学問としたものである。井上輝子さんが1980年代に日本に持ち込んだ、アメリカのウィメンズスタディーズが基になっている。
ちなみに、男性学は、伊藤公雄が1990年代に日本に持ち込んだ。
エトセトラの記事によると、どうも男性学も、ウーマンリブ運動から派生した1980年代から続くメンズリブ運動と関連したものらしい。家庭的役割や受動的印象を女性に押し付けてきた古典的男性像を廃した上で、自分とは何かを探る男性による男性のための学問、と私は理解した。
要は、両者とも「男性とはこう」、「女性とはこう」といったクラシカルな幻想が崩壊しつつある現代において、新しく自分を探す旅であり、クラシカルな幻想の中で抑圧された人々の抗い、戦いの歴史である。
そうなると、男性又は女性に分けられない人々はどうなるのかということになり、クィア学というものも登場している。
これとは別に、より古い学問として『社会学』があるが、社会学は男性優位社会と男女二元論を前提として語られることが多いので、ここで出てくる女性学や男性学、クィア学とは別の軸を持っている。
しかしこう書いていると、より多様化を増す昨今、男性とは何か、女性とは何か、クィアとは何かを個別に問う事自体ナンセンス、又は単に自分の感覚とは合わないと感じるかも知れない。
最近ではそういった風潮もあって、男性学、女性学と分けずに『ジェンダー論』としていたりもする。これはあくまでも学問ではないが。

改めて、私はノンバイナリー(男性にも女性にも分けられない性自認)である。
女性代表としても、男性代表としても、しかしまたクィア代表としても話しはできないと感じている。
私の中の男性・女性は対局にあるものではない。また、自分の性自認が特殊なものであるとも思っていない。
私は私である。探さなくても、私はあるがままの私を知っているし、それは現状隠されてもいない。
けれども、私が私の性自認を口にし、誰かに説明したり、解釈を深めたりするとき、男性とは何か、女性とは何かは重要になってくる。私はそのどちらでもないし、あるいはどちらでもあるのだから。
そして、私が私以外の人に目を向けるとき、古典的な女性像、男性像に抑圧され苦しむ人々が多くいることに気がつく。社会は依然として、男性優位社会であり、(古典的なイメージに基づく)男女二元論に根強く支持されている。
こうした社会が続く限り、その社会構造に立ち向かう学問としての女性学や男性学は必要だろう。

謝辞:あきらさん、素敵な特集をありがとう!応援してるよ!

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