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車椅子族(18年目)が「トランス身体障害者」に思うこと

 車椅子ゆえの不便をX(ツイッター)に綴っている人物(男性を自称していますけど、性別含め正体は不明)が、「実は歩けるのに車椅子を利用している”トランス身体障害者”」として批判されています。
 本記事では、この件に関する違和感を短めにまとめてみます。

1.「立てる」「若干の歩行が出来る」としても、車椅子が不要とは限らない

 車椅子を必要とする事情は多様です。電動車椅子族歴が18年目になる私自身、「こんな車椅子もあるのか」「こんな理由で車椅子ってこともあるのか」と未だに驚いています。階段を昇降できる車椅子も、横に動ける車椅子もあります。「歩行はできるし本人もしたいのだけど、内臓への負荷を避けるために電動車椅子」というケースもあります。
 車椅子に乗っている誰かが立ったり歩いたりしていたからといって、いちいち疑問視することは、その人の視野の狭さと知識のなさとバカっぷりの広報に他なりません。
 日本では問題ない? それは、日本政府の視野の狭さと知識のなさとバカっぷりと、やる気のなさの広報です。国連障害者権利条約を2014年に締結した日本は、約10年にわたって、何をしていたのでしょう? 障害についてロクに知らない一般ピープルが、障害について言いたい放題で許されて大きな顔をしていられるという現実を見る限り、政府が社会への教育や広報を充分に行っているとは言えませんよ?

2. 車椅子にメリットがあるとしても、デメリットの方が大きいはず

 車椅子を利用するようになった人は、おそらく「なぜ、こんなにバリアだらけなんだ」と驚愕するでしょうね。日本の大都市部のバリアフリーインフラは、可用性(使いたい時に使えること)を考慮すると、掛け値なく世界に冠たるものです。それでも、「健常者と同様に」とはいきません。
 移動に手間と時間がかかるということは、あらゆるコストを増大させます。健常者なら日帰りできるルートなのに、1泊を余儀なくされたりしますから。就労したり収入を得たりする機会も、減少したり「やりにくく」なったりしがちです。その上に「障害者は不当に得してる」という不当な目線をぶつけられます。どう考えても「メリット ≪ デメリット」です。そのデメリットを必要ないのに敢えて引き受けているのなら、「あらあ、物好きねぇ」の一言で済ませてよいのではないでしょうか?
 なお、障害者福祉を利用することはメリットに見えますが、それ自体の手間暇や心労は考慮してほしいものです。そもそものデメリットがあまりにも大きいので、それを埋め合わせるほどのものにはならないし。

3.「乗りたい人が面白半分に乗ってもいいじゃないか みつを(風)」

 私自身は、「車椅子が遊具なみに世の中に馴染めばいいのに」と思っています。趣味的なこだわりの自転車に乗る人が時にいるのと同様に、時に趣味的に車椅子に乗ってみる人がいても良いのではないかと思います。「そんなことをしたら、公共交通機関が車椅子対応でパンクする」というご意見もありそうですが、趣味で車椅子に乗って長続きする人はめったにいないと思います。多くの方は、交通をはじめとするバリアの数々、そして冬の寒冷や夏の酷暑に悲鳴をあげて止めるでしょう。
 車椅子が特別な関心を集め、稀に特別な関心を集めるための道具として使われてしまうのは、車椅子が特別視されているからです。趣味でときどき乗ってみる人が増えれば、その状況は少しは変わるでしょう。それに、誰がいつ、車椅子を必要とする状況になるか分かりません。その時、ご本人または周囲の方の「全く知らない補装具ではない」という意識と若干の慣れがあれば、備えあれば患いなし。

議論の「こなれ感」を待望

 車椅子に対する感情も、車椅子に関する議論も、もう少し成熟して「こなれ感」を醸し出してほしいものです。
 このたびの「トランス身体障害者」に対するネットでの意見の数々は、まだ未成熟、まだ全く「こなれ」ていない日本の現実の反映でしょう。そして、成熟と変化の契機です。

ノンフィクション中心のフリーランスライターです。サポートは、取材・調査費用に充てさせていただきます。