コロナ禍があぶり出した「大学」の本質とは

 2020年度はコロナ禍の影響で、新年度から対面授業が行えないままの大学も少なくありません。そういった大学の大半で、講義や手続きなどのオンライン化が行われました。教職員も混乱している中、懸命の試行錯誤でした。

学生も保護者もしんどい

 とはいえ学生や保護者にとっては、特に今年度の新入生にとっては、通えない大学や使えない図書館のために学費を支払っている理不尽感が小さくないようです。特に、保護者と離れた遠隔地で学んでいる学生にとっては、一人暮らしのコストを支払う意味があまりないわけです。さらに、コロナ禍の影響はバイトの機会も減らしました。「バイトしたくても、思うように出来ない」となると、厳しい経済状況と先が見えない混迷の中で大学近くに住み続けることのメリットを疑うのは当然です。しかし、一度実家などに戻ってしまうと、再び大学の近くに住み始めるための初期費用がもう一度必要になります。その間、家電製品や家具はどうすればよいのでしょうか。学業と学生生活と進路とバイトだけでも大変だったはずなのに、考えなくてはならないことが増えます。20歳前後の若者に、それらをすべて適切に取り扱うことを求めるのは酷というものでしょう。適切な相談先や支援者を見つけることも、容易ではありません。保護者が失職したり減収したりしていると、実家に助けを求める選択肢もありません。

大学の学費減免を求める学生を、教職員の一部は応援

 というわけで、大学の学費の一律半減を求めるキャンペーンをはじめ、学生の経済的負担を減らすためのアクションが数多く実施されています。もともと不足していた公的支援は、さらに不足ぶりが明らかになりました。各大学が独自に経済支援を実施したりもしています。金額は「焼け石に水」ですが、助けになっていることは確かです。しかしながら、学生生活そのものを支えられるような枠組みは、ほぼありません。学生たちの生活を苦しめている原因の一つは、高すぎる学費です。
 大学も教職員も厳しい状況に置かれていますが、私と直接付き合いのある心ある大学教職員たちは概ね、学生のこのようなキャンペーンを支持しています。「学生が学生生活を続けられないかも」という危機に際して、「自分たちが困るから学費を支払え」とは言えません。教職員には、学費半減による減収を別の何かで補うために、たとえば国に働きかけるという行動の選択肢があります。「教職員の私たちは、私たちで頑張るから」ということです。

高校生は、さらに苦境にあるかもしれない

 また、大学生よりも注目が集まりにくい高校生を対象とした、「子どもの貧困対策センター・(公財)あすのば」の給付金のような取り組みもあります。「あすのば」の給付金は、非課税世帯の高校生を対象としています。生活の足としての車が不要な大都市部で「非課税世帯」といえば、「所得が高すぎて生活保護の対象にならないけれど、生活保護基準の1.2倍程度までの所得」といった世帯が連想されやすいのですが、地方では「車か生活保護か」という究極の選択を迫られた末、生活保護を断念して車を維持する世帯が少なくありません。というわけで、「所得だけを見れば生活保護の受給資格がある低所得で、しかも車に関する支出があるので、極めて厳しい」という世帯を含んでいます。この給付金の対象となった高校生たちを含め、すべての高校生たちが、継続的な現金・現物による支援、そして人による支援を受けられ、コロナ禍によって高校生活を断念することなく高校卒業後の希望を叶えることができるよう望みます。

大学や研究の”環境”に関する私の関心

 私は、大学や研究に関する環境についての取材や執筆も行ってきています。今、あまり行えていませんが。日本数学会の「ジャーナリスト・イン・レジデンス」というプログラムにも数回参加し、大学や研究機関での教育環境・研究環境についての取材を行ってきました。

 動機を尋ねられると、「ノーベル賞と科研費不正だけじゃ いや」と答えることにしています。1988年、雑誌『Hanako』が創刊したときのキャッチコピー「キャリアとケッコンだけじゃ いや」のパクリです。
 大学や研究機関や教職員や学生たちにスポットライトが当たるのは、栄誉ある賞の受賞、または研究(費)不正の時ばかりです。「ばかり」は言い過ぎですけど、世の中の記憶に残るのは「◯◯賞」「◯大学で◯億円の不正」「◯研究所で◯細胞に関する研究不正を行った、キャラ立ちするイケメン」といったことばかりです。それらを生み出している人やものごと、そして研究の内容そのものには、なかなか光が当たりません。そして最も注目されにくいのは、教育や研究の環境そのものだと思います。環境がなければ、何も生まれないわけですから。なお、忘れられがちですが、研究機関も大学+大学院教育の一端を担っています。

 この関心は、今も持続しています。そして、コロナ禍の影響と今後を、心から懸念しています。

さて、コロナ禍があぶりだした「大学の本質」とは

 今年度、大学のキャンパスや講義室が学生でいっぱいの「密」になることはありませんでした。講義がオンライン化され、対面講義を行う場合でも講義室に入る学生の人数が制約されたからです。もしも今後、理科系の実験や実習が数年にわたって事実上行えないままになったり、人員制限の都合からカリキュラムを4割カットすることになったりすると、理科系の教育の意義の根本的な見直しを強いられることになるかもしれません。「就職しやすい」「即戦力になれるかも」といったメリットが減少するからです。言い換えれば、「そんなところにメリットを見いださせて、本当にいいの?」ということです。

 大学には、研究という機能もあります。しかし、利便性が高い大都市の中心部にある大学ほど、研究室を含めて大学閉鎖を余儀なくされました。特に実験を伴う研究では、研究室を閉鎖すると、研究の進展が大きく制約されます。実験ができないわけですから。

 秋学期から、対面講義が再開される大学も多いようです。研究室での実験の再開も、春学期に比べれば容易になるでしょう。しかし、いったん新型コロナ感染者が発生すれば、また活動の縮小を余儀なくされそうです。

 学生が来ていようが来ていなかろうが、その年度に使わなくてはならない研究費は、使わなくてはなりません(さまざまな弾力的運用はありますが)。その研究費に値する研究成果を出すことは、多くの分野で不可能になっているにもかかわらず。当初、期待された「費用対効果」は、少なくとも同じ期間では実現できなくなることが多いのではないでしょうか。反面、文献と人手だけで行われるタイプの人文社会科学系の研究は、あまり影響を受けず、「費用対効果で見る限り、新型コロナに強かった」ということになるかも。研究の「効果」や「コスパ」を、何で測ればいいのでしょうか。少なくとも、人文社会科学不要論の根拠となってきた指標は、「その指標を使うと、社会に役立つ◯◯製造技術が、最も新型コロナのダメージに弱かった」というような結果につながるかもしれません。かといって、理学と工学から「社会科学に転じてますなう」の私は、理科系の方々に「ザマア」と言いたいわけではありません。

 大学や研究とは、そもそもコスパが悪いもの。コスパを期待してはならないもの。そういう本質が浮かび上がったように見えます。

活動休止状態を維持するだけでカネがかかる現実を認めなきゃ

 教職員の人件費についても、同様ではないでしょうか。正規雇用の教職員は、学生が大学に来ても来なくても、全学生の学費が半額に減額されて学費収入が半分になっても、だからといって人員削減するわけにはいきません。教職員の組織が一定のモチベーションのもとに維持されていればこそ、大学教育は可能になるのです。過酷な労働条件がしばしば話題となる非正規雇用の非常勤講師も、実のところは同等です。非常勤講師を捨て駒のように扱う大学の態度を、学生は冷静に見ています。時に、自分のハケ口として活用します。そういったことは、その大学の教育の質を長期的に引き下げます。研究機関も同様です。

 さらに、学生が来ても来なくても、研究らしい研究が出来る状況であってもなくても、その大学や学部や研究機関が機能を維持するために、どうしても維持しなくてはならない施設が数多く存在します。図書館、学生実験施設(閉鎖された大学の中に置かれているだけの実験装置であっても、メンテナンスが必要です)、演習林、演習農場など。そういった施設等に備品や消耗品などを供給している業者を含めると、どうしても「大学や研究機関で、一定の購入と消費が継続されていなくてはならない」ということになります。本格的な活動を再開するとき、皆無になってしまった業者さんの復活から始めなくてはならないようでは、再開は事実上不可能でしょう。新自由主義の方だったら「そんなの自由競争で新規参入の促進を」とおっしゃいそうですが、「ブルーオーシャンみたいだから新規参入したい」と思ったからといって、1年や2年で参入できるものばかりではありません。研究とその周辺を、なめたらあかんぜよ。

すると高等教育無償化が実現するカラクリとは

 大学や研究機関は、活動を休止しているように見えても費用を食うものです。言い換えれば、存在しているだけで消費と雇用を生み出します。市場原理主義者の方には極めて評判悪そうなあり方こそ、大学や研究機関の存在意義です。

 空から雨として降り注いだ水は、すべてが地上で何らかの生産のために使われるわけではありません。地中に染み込み、地下水となるものもあります。地下水を貯蔵する能力は、時に水害時の被害の大小に影響します。また、地下水を消費しつくしてしまうと、地盤低下が起こります。この土壌と地下水のようなあり方こそ、大学や研究機関の存在意義ではないでしょうか。

 とりあえず、「大学や研究機関は社会に欠くことのできない基盤である」という事実を認め、そこにいる人々の声に応じた雇用と研究費をしっかり注ぐとします。そんなに大した金額にはなりません。2020年現在の生活保護費総額に比べても「数分の一」程度。いざとなれば防衛費を見直せばいいじゃないですか。戦争や国防といった極めて分かりやすい目的は、大学や研究とは水と油かもしれません。

 すると、学生が来ようが来なかろうが、研究成果が華々しかろうが貧弱であろうが、大学や研究機関は、必要な人件費その他の費用とともに維持されることになります。

 そこで、教育も提供されるとしましょう。教育に必要な現金現物の手当は、どうしても必要です。しかし、それほど多額にはなりません(とりあえず医学部を除く)。「すべてを学生からの学費で賄わなくてはならない」という状況にはなりません。すると、高等教育無償化が実現してしまいます。

 これに加えて、学生が生活の心配なく学生生活を送れるのであれば、大きな問題は残らないことになります。どうやって? 伝家の宝刀を抜きましょう。「生活保護での大学等進学を認める」、以上。

 ぜひ、政府に実行してほしいものです。効果は大いに期待でき、害毒やリスクはあまり考えられません。そして、大した費用がかかるわけではありません。問題は、「新自由主義者にとっては許しがたい考え方であろう」ということ、のみ。

ノンフィクション中心のフリーランスライターです。サポートは、取材・調査費用に充てさせていただきます。