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2019年の大学と研究界隈の事件ふりかえり・総研大学長のハワイ出張が観光を含んでいた件

 もう2020年、2月後半に入ってしまっていますが、大学と研究の界隈で起こった2019年の事件(独断と偏見によって選択)を、メモ的に記しておきたいと思います。 

 2019年、個人的に最も驚いたのは、総研大学長・長谷川真理子氏のハワイ出張が観光を含んでいた件でした。報道は同年10月から始まりました。

まずは結論を

 大学のマネジメントのマネジメントがありません。このままではイクナイです。対策はマネジメント強化ではなく、マネジメントを困難にしている要因の除去です。

いるだけで励ましになっていた女性研究者

 長谷川真理子氏は、私が高校生だった1980年ごろから、将来を嘱望される若手女性研究者として注目され、メディアで紹介されたりしていました。「名誉男性になれる女性は、いつでもごく少数はいる」という見方も出来ますが、先を行く女性研究者や女性専門職の背中がチラッと見えるだけで、田舎の女子高生がどれだけ励まされたか。その長谷川氏に、いったい何があったのでしょうか。 

観光成分の多い学務出張、そしてあまりにもセコい費用

東京新聞:<税を追う>メールににじむ「観光気分」 総研大のハワイ視察 訪問先を綿密に相談

 問題のハワイ視察の金額は、「セコっ!」と驚くほどのものです。総額は208万円。これは医療など現物給付を含む生活保護費1人1年分と同程度です。決して、小さな金額ではありません。しかし、7人分です。1人あたりでは30万円以下になり、大したゼイタクができるわけではありません。その人数で行く必要があったかどうかは、大いに気になりますが(といいますか、既に大いに問題にされていますが)。

人件費削減の中で捻出された費用

 最大の問題は、その費用が大学全体の人件費削減によって捻出されたことにありました。人件費削減の中で、大学の雇用は全体的に縮小され、学長の長谷川氏らの報酬は増額され、そしてハワイ視察費も捻出されたというわけです。女性研究者として実績を積んできた方が、若い女性研究者の雇用(大学の人件費削減≒非正規化と非正規教職員の削減≒女性のキャリアへの打撃)を守らないのでは、憤懣が噴出しても当然ではあります。

東京新聞:<税を追う>人件費削減などで4400万円捻出 総研大、学長らは報酬増

報道が続く中で語られる「正論」

 この件に関する報道が、まだまだ続いていた2019年11月、朝日新聞に、長谷川氏のインタビュー記事が掲載されました。

朝日新聞デジタル:減る博士課程進学 打開策は? 長谷川眞理子さんに聞く

 正直なところ、どう評価していいのか。どう反応していいのか。頭を抱えてしまいました。

 ご発言の内容はまことにもっともなことばかり。実践と実感に基づいて当然そうなろうというものです。しかも、現職の女性学長が語るからこその意義というものがあります。任期制のポストで次の行き先探しにヤキモキしながら毎日を過ごしている現役の若手女性研究者が同じことを言っても、世の中も政治もなかなか動かないでしょう。「長谷川氏が言ってくれるから助かる」という側面はあるし、私もそう感じました。しかし、よりによって、なぜ? ハワイ視察の件がまだかなりホットな話題だった時期に?

どう捉えるべきか悩ましすぎる。「私ならどうする?」

 この時期の長谷川氏の発言からは、私は

「何か悪いことをしたのであれば、それについては謝罪その他のケツ拭きの必要はあるけれど、それ以外のことについて自粛したり黙ったりする必要はない」

という態度を学ぼうと考えています。

 とはいえ、研究も教育も全人的な営みですから、一人の人間Aさんを「実績ある研究者のA1さん」「責任を負っている学長のA2さん」「よろしくないことをしてしまったA3さん」に分割してとらえることが妥当なのかどうか。まことに悩ましいです。

 ともあれ、高校生だった私に先行く女性研究者の背中を見せてくれた長谷川氏は、約40年後の現在も、「あなたならどうする?」と考える素材を私に示してくれている。そういうことにしましょう。

 長谷川氏に対しては、「成功した女性研究者が、若手女性研究者を守らなかった」という批判もあります。私も、心情としては少しだけ共感します。しかし「女性だから」という理由で余分な役割を期待するのは、いかがなものでしょうか。長谷川氏に求められる役割は、あくまで大学教員として、学長として、研究者としてのものであるはずです。いつまでもどこまでも「女性として」を期待するのは、それはそれでジェンダー問題、医学部入試で行われた女性差別の裏返しだと感じます。

「マネジメントのマネジメント」不足をどうすればいいのか

 最大の課題は、大学や研究機関に、国立大学法人化(2004年)以前とは比較にならないほど難易度の高いマネジメントが求められているにもかかわらず、「そのマネジメントのマネジメントがない」ということではないでしょうか。そして、作ればいいというものではありません。大学や研究という営みの性格を考えると、「マネジメントのマネジメント」を作ることが適切かどうか、極めてビミョーに思えます。

「国立大学法人のマネジメントなら文科省がやっている」という見方はできますし、事実でもあります。

「これだから大学はダメなんだ。どれ、財界が実質的に管理してやろうじゃないの」というのが、ここ10~20年ほどに実施に起こっている動きでもあります。

 個々の大学のマネジメントは、2004年以後、よくも悪くも複雑化しています。それは文科省や財界や自民党が求めたからでもあります。複雑なマネジメントを行うには、それに耐えられる体制が必要です。どこの大学も、減らされていく資源や人員の中で必死に知恵を絞り、マネジメントを洗練させ、実行を続けています。私は現役の大学院生でもありますが、職業柄、取材を通じて大学のマネジメントの実情を知る機会が多く、頭が下がり続けています。

 でも、足りていません。
 資源も人員も足りなさすぎて、実はマネジメントのしようもないところまで行っているのかもしれません。第二次世界大戦で敗戦する直前、1944年や1945年の日本軍のように。
「大学に経済界の新自由主義精神を」という方向性が、そもそも大間違いだったのかもしれません。
 大学が自治や自由を失ったら大学じゃなくなります。もう、そうなりかけていますけれども、引き返す方法を探し、引き返すことが正解なのかもしれません。

「マネジメントのマネジメントが不足している」という視点を取り込むと、大学の不祥事や問題の多くが説明できます。難しくなりすぎたマネジメントをマネジメントし、実行や遂行を促進する体制を構築することは、容易ではありません。といいますか、難しくなりすぎて、事実上無理なのではないでしょうか。繰り返しになりますが、そういう体制を導入したり構築したりすることが正解かどうかも疑問です。

どうしても「同情するならカネを出せ」

 なぜ、大学のマネジメントが難しくなりすぎたのか。最大の理由は、資源不足でしょう。同情するならカネを出せ。飢えて力も出ないところで「働けばお金が入る」と言われても実行できないのと同じ。「とやかく言うのでしたら、カネがないことに対してもお願いしますよ」というところです。
 下手に、経済界の論理でマネジメントを強化するために費用を使うのと、大学に「ご自由にお使いください」というカネを渡すのとでは、どちらが安上がりでしょうか? 私は、圧倒的に後者だと思うのですけどね。

 ともあれ2019年は、大学や研究機関の「マネジメントのマネジメント」の問題が決定的に表面化した年だと、私は認識しています。




ノンフィクション中心のフリーランスライターです。サポートは、取材・調査費用に充てさせていただきます。