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新型コロナウイルスが大学や研究機関にもたらす”チャンス”

 非常に不謹慎だと自覚しつつ、敢えて言う。

 新型コロナウイルスは、日本の大学や研究機関にとっての”チャンス”だ。もしかすると、最後の”チャンス”かもしれない。

 この20年、少子化の進行とともに、大学の数や定員は減少させる必要性があるとされてきた。確かに、18歳人口が最も多かった時期、それだけの大学や大学生が本当に必要だったのなら、少子化が進行すれば、「余剰大学」や「余剰大学生」が生まれることになる。そのような前提で、大学改革は進行させられてきた。

 また、学術研究の多くも、実用性をすぐに示せないゆえ「不要不急」とされてきた。実用性や応用の可能性があれば、「じゃ、自活できるでしょ」ということで公費が投入されにくくなるわけで、どちらにしても生きづらい。

 気分だけでも好況が続き、新卒の就職状況が良好だと、不景気になったときのことを簡単に忘れてしまう。しかし、1980年代のバブル世代も、1990年代の氷河期世代も、2000年代にリーマン・ショックを経験した世代も、入学年次や卒業年次の1年2年の違いが、状況を全く変えてしまうことを知っているはずだ。

 1990年代、バブルが崩壊した時期に「大学院重点化」が重なった。少なくとも理工系なら、修士課程に進学することは、むしろ望ましい選択と考えられやすい。2年後、あるいは5年後(博士課程まで進学した場合)、就職状況はさらに悪くなっていたのだが、少なくとも2年なり5年なりの時間の猶予はあった。時間の猶予に、実質的な本人のスキルや人間性の向上があったのなら、就職は困難とはいえ、不可能というわけではなかった。しかし、不況はさらに深刻化し、「余剰博士」が課題となり、目先の解決として「ポスドク1万人計画」が実施され、2000年代に入ると40代の「高齢ポスドク」という課題が生まれ、そのまま見捨てられた。

 2020年の新型コロナウイルス問題は、内定取り消しや、試用期間終了時にテキトーな口実を付けた解雇などの悲劇を生み出すだろう。新年度に入る前からわかりきっている。
 彼ら彼女らが卒業したばかりの大学や大学院が、バッファとしての役割を果たさなくて、どうする?

 在学中の内定取り消しなら、在学延長が可能だろう。卒業後、試用期間終了時の実質雇用取り消しの場合、容易に、かつ経済的負担ほぼゼロで、大学に出戻りできる機会を設けることはできないだろうか。

 どのような就職選考改革を行おうが、日本人に深く刷り込まれた「新卒が一番」という価値観は簡単には変わらない。大学に籍をおいたまま、就職活動その他の「次」に向けた活動ができれば、言うことはないだろう。

 しかし、ただ単に卒業までの時間を引き伸ばすことは、もはや難しいだろう。学生本人からも、支える親からも、学費や「働いていない期間」の負担に耐える力は失われてきている。大学という組織には、そこを支える力があったはずなのだが、度重なる大学改革によって余力が失われてきている。

 「どうやって?」という問題はある。でも、今回の新型コロナウイルス問題は、私たちの社会にはどうしても「ムダ」「役に立たない」「実用性がない」といったものが必要であることを明らかにした。バッファがないと、「万一」に対して脆い社会になってしまう。効率化と呼ばれるものによって、日本はバッファのない脆すぎる社会になってしまった。もう、誰もが気づいているのではないか?

 どこに「ムダ」を仕込み、どのような「役立たず」を抱え、どこまで「実用性がない」を許容すればよいのか。それは分からない。簡単な正解は見つからないだろう。だから、再び試行錯誤する必要がある。

 まずは、新年度とともに社会に接続されるはずであった高校・大学等の新卒者を守るべきだろう。研究機関は、その方法を提供すべきだろう。「どうやって?」という問題はあるけれども、そのことについて、社会の最低限の合意が得られることを望む。

 余裕をなくしつつある日本社会から、退場へと向かわせられていた大学と研究機関にとって、今は最後の”チャンス”かもしれない。目先の「実用」と関係があるかどうかはともかく、本当に社会にとって役に立ち、有意義であり、必要であることをわかってもらう”チャンス”だ。

 この”チャンス”が最大限に生かされ、誰もが幸せになれることを、心から望む。

ノンフィクション中心のフリーランスライターです。サポートは、取材・調査費用に充てさせていただきます。