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犬も歩けば棒に当たる。障害者が歩けば何に当たる? 書籍『障害のある人が出会う人権問題』で、だいたいわかる。

 法学者の杉山有沙さんから、ご共著の新刊『障害のある人が出会う人権問題』をご恵投いただきました。一読してみて「多くの方にとって、けっこう有用かも」と思いましたので、紹介します。平易だし、読みやすいし。
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 なお、本記事において、私は「障害者」「健常者」という表現を使います。


「人権」というものの成り立ちと構成は、どうなっているの?


 人権問題は、誰かの人権が尊重されていなかったり侵害されていたりする場面で発生します。その「人権」はどのようなものであり、人権尊重はどのような法によって裏付けられているのでしょうか?
 もちろん、私は全く知らないわけではありません。自分が障害者なので、否応なく詳しくならざるを得ませんでした。また、生活保護政策の研究で博士学位を取得していますから(博論を出版した書籍こちら)、法については必要最小限ですが勉強しています。
 まず、現在の日本国憲法の考え方の基本に「天賦人権」があります。人権は「自由権」「社会権」の2つに大別されます。日本国憲法25条で規定されている「生存権」は、主に社会権であると言えますが、自由権との境界がカッチリ設定されているわけではありません。障害者の権利は、米国では黒人公民権運動とリンクする形で1970年代から注目されはじめ、1990年の米国障害者法制定に結びつきました。そのコンセプトを発展させる形で、国連障害者権利条約が2006年に成立し(発効は2008年)、日本は国内法を整備して2014年に締結しました……その程度は、何も参照せずに言えます。
 でも、障害者の権利は、たとえば日本国憲法でハッキリ規定されているわけではありません。そこにあるのは「国民の権利および義務」であり、「法の下の平等」です。ハッキリと「障害者は健常者と平等」と書かれていなくても、「憲法で規定されていないから障害者差別はあってもよい」と主張するのは無理です。では、障害者の人権は何によって保障され、侵害された場合はどのようにNoを言えるのでしょうか? 障害者自身が理解していなければ、効率的な「No」は言えないでしょう。
 自然に自動的に保障されるとは限らないのが、障害者の人権。侵されにくく侵しにくくするためには、障害者も障害者に接する人々も、基本的なことを知っておく必要があります。そして今の日本で、その知識はあまりにも普及していません。私自身も、結構あやふやかも。
 この本を読むと、自分自身の理解が穴だらけであることに気づきます。障害当事者だけではなく、周囲に障害者がいる方々の必読書でしょう。「良かれと思って」「ためを思って」行っているのに障害者の権利を侵害していることは、実によくあります。それは、正確な知識がないからです。知って学べば変われます。

近年の重要な動きも、網羅的に紹介

この本の大きな特徴の一つは、時事的な出来事、しかも湯気が立ちそうなほど直近の出来事に関する記述があることです。たとえば第8章は「移動の自由」にフォーカスしており、数多くの事例が挙げられています。2022年、視覚障害のある女性が大分県の無人駅でホームから転落して電車にはねられて亡くなったという事件(136ページ)をはじめとする近年の数例の死亡事故があげられており、その多くは私自身も知らないものでした。障害当事者が知っている障害者ゆえの問題は、やはり自分の障害に関係したものに偏りがちです。
 肢体不自由で車椅子を使用する私の近年の心配事は、地方出張の際に「その駅が無人駅または無人の時間帯だったらどうしよう」です。バリアフリー情報は事前にある程度調べられるのですが、駅員さんがいないと乗降車介助は受けられませんから。現在、駅のほぼ半数が無人駅なので、大都市圏以外の地域では移動がスリルとサスペンスありすぎです。そうはいっても、採算性の低い地方の鉄道路線が人件費削減圧力を受け続けているという状況を、今すぐ誰かが変えられるわけではありません(もちろん、変える必要はありますが)。本書には、駅自体に無人の時間帯があっても障害のある利用者(を含めて全員)が困らないように工夫した好事例も、いくつか挙げられています(手放しで「好事例」と言ってよいのかどうかは微妙ですが)。
 本年2023年は、歩行障害を持つ劇作家の相馬杜宇さんが鉄道運賃の障害者割引制度の見直しを求める署名キャンペーン「鉄道の障がい者割引、仕組みを見直してください!!」を続けており、話題を集めています(例:東京新聞の記事)。費用を含めて、障害者が移動に関して負うハンデやバリアをどう考えればよいのでしょうか? 整理するために、本書は大いに役立つでしょう。

猫に言われて笑っちゃったり、ギクッとしたり

 「猫目線」が取り入れられていることも、 この本の特徴の一つでしょう。人間どうしで人権の話をすると、どうしても「誰が誰の権利を侵害したか(侵害されたか)」といったギスギスから自由になれないところです。そのギスギスは愉快なものではありませんが、特にギスギスしないと自分の人権を守れないのが社会的弱者です。だから致し方なく、時に決意を固めて、非難を覚悟して、「ギスギス」を作らなくてはならないのが障害者の日常です。「ギスギス」はイヤだ? 理不尽はあるものだと受け入れる? だったら、代わりに「泣き寝入り」をどうぞ。それはそれで問題ですけど……どうしても、そういうことになってしまいます。
  この本では、人間としてではなく人間の社会にいる猫たちが、時に上から目線で人間界を見下ろし、時に人間の都合に振り回される我が身を心配し、時に人間社会の外から、時に人間社会の中から、障害のある人の人権問題にコメントします。言語学者・政治学者のノーム・チョムスキーさんは、世界の政治問題に対して「もしも火星人が地球を見ていたら」という例え話をしますが、地球の外にいる火星人ではなく、人間の社会の中にいる猫というところがミソですね。誰かと誰かの具体的な人権問題は、遠く離れた第三者の「こうすればいいのに」では解決しないからです。

食い足りない点も、疑問もあるけれど

  この本は良書であり、現時点では他に例を見ない本だとは思いますが、「食い足りない」「ちょっと、どうかな?」と思う点も、もちろんあります。
 たとえば、職業の自由と勤労の権利について解説している第9章では、「進んだ」と喧伝されるものの先進諸国に比べれば圧倒的に進んでいない日本の障害者雇用が挙げられ、障害者雇用率という割当て制そのものの意義や是非まで掘り下げられています。ところが、障害者の就労において重要な基盤となるはずの障害年金、そして障害年金と就労収入の関係については、解説らしい解説がありません。障害者は就労を含め、社会活動を行うために健常者なら不要なコストを支払う必要があります。それは個人が支払うべきものではありませんが、公共があらゆる場面で全部をカバーすることはできません。就労する障害者が健常者と同じ時間働くとすれば、障害による不利を補うために多く収入を得なくてはならないことになります。それは不可能なので、障害年金をはじめとする経済的援助があります。ところが障害年金は、一部の障害で「働かず稼がないなら給付する」「働いて稼いでいるなら給付しない」という方向になっているんですよね。働いて稼いでいれば、それを続けるための費用が必要なのに。この問題は「経済的に障害者を分断」とも言えるもので、極めて重大なのですが、触れられていません。生活保護の障害者加算をはじめとする各種加算については、けっこう詳しい記述があるので、これは「え?」というところです。
 また、国連障害者権利条約をはじめとする国際人権法との関係も、2022年9月に日本政府が受けた統括初見(勧告)を含めて、あまりにも「あっさり」です。今の日本の障害者福祉に抜本的な見直しを迫る統括初見は、今すでに日本の福祉の現場にいる人々にとっては刺激が強すぎる懸念もありますが、それはすなわち障害者の人権問題が発生しているということです。しかしながら、ただでさえ人手不足の福祉の現場で働く人が逃げ出したら障害者は生きていけなくなります。痛し痒し。
 障害者の生存と切り離せない生活保護について、「あれ?」と思う箇所もありました。1967年の朝日訴訟判決によって生活保護基準の決定方式が見直されたという内容の記述(23ページ)があり、当時(原告の朝日一氏が提訴した時)の生活保護基準は「生活必需品の金額を積み上げて扶助の金額を決定する方式」で定められていたけれども、判決を受けて「その後の高度成長期には徐々に生活保護基準が引き上げられ」たと延べられています。でも、朝日訴訟の提訴時の生活保護基準決定方式はエンゲル方式でした。家計支出に占める食費の比率であるエンゲル係数が、一定値を超えないように生活保護基準を設定する方式、「とりあえず栄養失調にならなければいい」という生活保護から脱却したわけです。生活必需品の金額を積み上げて保護基準を決定していたのは、その前のマーケット・バスケット方式です。朝日訴訟判決を受けて生活保護基準を引き上げていったときは、格差縮小方式。1967年は高度経済成長の真っ最中だけど、その終わりも迫っている時期でした。エンゲル方式は実質的にはマーケット・バスケット方式にイロをつけた程度のものだったので、この記述は誤りとは言い切れませんが、「あれっ?」とは思います。

 ともあれ、パラパラと眺めてみる価値はある本ではあると思います。良さそうだと思ったら、買ってみるなりお近くの公共図書館にリクエストするなり、ぜひどうぞ。

後記

 食い足りない点のうち重要だと感じるポイントが、もう1つありました。障害児が特別支援学校ではなく一般の学校で教育を受ける権利に関する記述です。
 本書には、障害児が一般の学校で学ぶことのできた重要な実例が、いくつか挙げられています(私の知らなかった事例もありました)。しかしながら、その事例はすべて、「同年齢の健常児と同等または同等以上の能力があるのだから」ということで一般の学校への通学や進学が認められたり、認められず裁判になったりしたケースです。
 障害児を特別支援学校や特別支援学級で教育することは、その障害児の能力や適性によらず、分離教育であり隔離であるとして批判されてきています。なのに近年、定員割れしている公立高校において、重度心身障害のある受験生を合格させない事例が相次いでいます。この本において、そういう事例が挙げられていないことは、やや疑問です。
 しかしながら、特別支援教育のすべてが「分離教育であり国連障害者権利条約に違反しているからダメ」という主張には、私もついていけません。健常児を含めて、すべての子どもが自分に適した教育を受ける権利を持っており(国連の条約群でいえば、子どもの権利条約で定められています)、特別支援教育はその選択肢の一つでありうるはずです。健常児が選んでそういう教育を受ける可能性だって、あって良いはずです。
 といっても、「その子に適した教育」という表現が、障害児を特別な教育機関や特別な教室に隔離しておく口実に使われてきた残念な歴史があります。障害児教育に関心のある人々がいる場では、カリキュラムや教科教育法やクラス運営の技術的な話さえ「地雷」になりかねないという、残念な現実もあります。
 というわけで、意図して「地雷」を避けたのかなあ? と拝察するにとどめます。

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