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『あたらしいサハリンの静止点』収録作冒頭試し読み②:織戸久貴「あたらしい海」

繊細なタッチで描き出す、あたらしい関係。初めての、香る、百合SF。
―大森望

第9回創元SF短編賞・大森望賞を受賞した織戸久貴さんの、第10回最終候補作「あたらしい海」の冒頭試し読み版を公開します!

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織戸久貴「あたらしい海」

 言葉になってしまう前の、予感みたいに届くしずかな香りを憶えている。

※※※※※

 わたしたち二十四人の教室は丘の上にあったから、晴れた日にはその四角い窓から〈いつかの戦争〉で歯並びの悪くなった湾を見て取ることができた。穏やかな海と並ぶように地平の向こうまでつづいている鉄道の反対は、校舎のふもとにある駅で打ち止めになっている。経済的に豊かな時期にはもっと線を伸ばしていくつもりだったそうだけれど、そちら側の人口が減ったので結局は頓挫したらしい。だからここ清浦の町は、全国各所に残っているこの世の果てのひとつだ。
 朝、すり減った廊下の面を足さきでなぞっていると、ざわめきに似たにおいが漂ってくる。それらはどこか、舞台の袖や踊り場の隅、あるいは水道の蛇口の前で交わされる密やかな言葉の断片を思わせる。わたしはそのひとつひとつを自分の教室に向かっていくまでのあいだ、なにも言わずに感じるのが好きだった。
 階段を上がるにつれ、ささやきめいた香りが消えていく。代わりに石油ストーブの発する熱と湿気とが溶け合った感触を鼻腔が拾う。そして教室の戸を開ければ、それはずっと濃く、わたしの目の前で花開くよう香る。
「おはよう」
 と、声をかける。あの日わたしが入ったのは始業の十分前だったけれど、まだ教室には半分ほどしかクラスメイトはいなかった。暢気な生徒が多いのだ。
 まばらに返ってくる返事とともに、息を吸い込む。鼻腔を刺激するストーブの熱っぽさに加えて、柑橘系の感触が混ざっているのを感じる。先月までは薄荷の香気が流行っていたのだけれど、冬休みを前にして、柑橘のしっとりと落ち着いたそれのほうが優勢になっていた。
「おはよ」
 窓辺の席にある椅子を引くとともに、その隣に向かって声をかける。
 机の上に置いた腕に顔を伏せているクラスメイトから、とりわけ甘ったるい空気が漂っていた。たぶん眠っていたせいだろう。その生徒はもぞもぞと動いてから首をゆっくりとこちらに向け、重たそうに両のまぶたを揺り動かした。
「おはよ、葉月」
 彼女の声が返ってくると、鼻腔に伝わっていた香気の質が変わった。
 真新しい木材を削ったときに広がる、どこか柔らかいにおい。
 いま起きたばかりの牧田結子がそれを発したのだ。こうして向かい合って会話をするさい、わたしたちはまずお互いの香気を交換する。挨拶のようなものだ。
「跳ねてるよ、後ろの髪」
 そう指摘しながら、こちらも自分の香気を伝える。
 梨の皮のようなにおいだと、よく他人からは言われる。わたしたちはそれぞれすこしずつ違った香気を持っていて、どんなときでもそれを手離さない。
 香気は自分でコントロールし発することのできるものもあれば、そうでないものもある。薄荷や柑橘系のにおいは、おそらく〈香人〉のほぼ百パーセントが発することのできる香気だ。そしてそういうものは大概、共通言語のように用いられる。
 といっても、特別においを意識しているわけではない。
〈諸人〉が発話するときどのように舌を動かすのかを深く考えないように、わたしたちもそれをごくあたりまえのこととして処理している。わたしたちの発するさまざまな香気は、言葉がそのうちに含むニュアンスや調子に、たぶん似ている。
「あれ、来るとき直したんだけどな」
「ここで思いっきり寝てたからでしょ。頭から湿気が出てくるんだよ」
「あー、寝てるあいだの香気は止めらんないもんな」
 結子は短くうなずき、頭を指で掻いた。わたしたち〈香人〉は〈諸人〉と変わりない見た目をしているのだけれど、こういう無意識のところで融通が利かない。
 教科書によると〈いつかの戦争〉が終わるころに人間は〈祖神さま〉の力により複数に分かたれたという記述が残っているそうで、人類史的に重ねた時間の浅いわたしたちの研究はそこまで進んでいない。たとえば人間の持つ嗅覚受容体をかたちづくる遺伝子の発現量が〈諸人〉と〈香人〉とでは大きく異なっているということはわかっているのだけれど、その詳しい理由などはいまだ解明されていない。
 また一時期は〈香人〉に対するひどい迫害などもあったそうだけれど、いまはそれをあからさまに感じることもない。それどころか、わたしたちは国からの助成金をもらいつつ〈香人学校〉に通うことのできる身分だ。これといって特別なカリキュラムはないけれど、月に一度の定期健診は念入りにおこなわれている。果たしてそれが人類史の研究に有益な結果をもたらしているかどうかはわからなかった。
「そういえばさ」
 と、跳ねた毛を直すのを諦めた結子がこぼすように言った。
「職員室に知らない子が入ってくの見たよ」
「転入生?」
 わたしは首を傾げ、疑問符を打つように香気を発した。
 学校の性質上、外部からやってくる生徒は珍しくない。けれど冬休みを一週間後に控えたこの時期にわざわざというのは、すこしばかり不思議に思える。
 それから教室に置かれている机を数えてみた。二十五個目はなかった。
「うちのクラスじゃないじゃん」
「どうかな、急な転入だったら可能性はある」
「それでも九分の一でしょ」
 高等部は三学年でそれぞれ三クラスずつ用意されている。ここは女子高なので転入生が男子である可能性はまっすぐ排除されるけれど、数あるなかでその子がここ二年一組のドアを開けてくれる可能性はだいぶ低い。
「賭ける?」
 どこか挑発するように、結子は酸味のある香気を放った。
 わたしはそこに混ざる冗談の空気をカモミールのにおいで払った。
「馬鹿」
 ほぼ同時に、黒板の上にあるスピーカーからチャイム音が鳴った。
 始業の五分前を知らせる合図とともに、換気係の生徒が窓を開けはじめる。窓に手の届く席に座るわたしも、それに合わせて自分の横だけ開けてやる。途端、つめたい空気が室内に入り込み、頬や首の肌をさらりと撫でていくのを感じた。
 わたしたち〈香人〉はいくつものにおいが混じるのを気にしない。けれど〈諸人〉である先生方はそれを好ましく思わないこともある。換気作業そのものは面倒でしかないけれど、わたしたち複数の人類がお互いに歩み寄ろうとするには必要な手順だ。
 それから数分も経たないうちに、担任の三木先生が教室にやってきた。
 けれどもクラスメイトの注目は、そこに集まらなかった。
 先生から三歩ほど遅れて、見慣れない女子生徒が教室に入っていた。真っ白なブラウスに、紺一色のブレザーとスカート。真っ赤なネクタイを結んで垂らしている。
 どこか緊張しているのか、彼女はうつむき気味だった。縁のない眼鏡のレンズが窓から注いでくる光に反射して、表情はよく見えない。割に上背のある先生よりも身長は高そうで、一七〇センチはあるかもしれない。
 教壇に立つ先生がなにか前振りのようなことを述べていたけれど、そのほとんどをわたしたちは聞いていなかった。周囲の真っ黒なセーラー服姿に見飽きていたぶん、その対比にわたしたちは内心で遠慮なく色めき立ち、香気を発していた。それぞれに差異はあったけれども、総じて薔薇っぽい花のにおいが教室に舞った。
 すると転入生はその変化を鼻腔で感じたのか、伏せていた顔を上げた。
「うわっ、美人」
 横で小さく結子がため息をもらした。
 たぶん、クラスメイトの半分以上がおなじことを考えていたと思う。
 転入生の顔の造形はびっくりするくらいに整っていて、お人形みたい、という小説めいた表現がそこにあった。黒い髪はねじれることを知らず肩口まですっと落ちていて、馴染みのない膝を半分隠すくらいのスカートの丈も、どこか上品なものとして映った。
 その転入生が先生からチョークを受け取って、黒板に名前を書く。
 ―襟沢凪、と読めた。
 教科書みたいに整った字だった。
 チョークを戻しこちらへ向き直ると、丁寧に頭を下げる。
「東京から来た襟沢です。どうかよろしくお願いします」
 驚くほどに綺麗なイントネーションの統合語であったけれども、ほか二十四人のクラスメイトたちはその声音を耳で感じるよりさきに、彼女が口の動きとともに発する香気を確認していた。ひどく意識的に、あるいは、なかば本能的に。わたしたちはどんな言葉よりも早く、だれかの存在をその鼻腔の奥で捉える。
 だからその一瞬の反応が気になって、わたしは視線だけを横にずらし、クラスの面々の様子をそっとうかがってみた。
 一部の生徒は顔をほのかに赤く染め、反射的に香気を発していた。無理もなかった。彼女の挙措や立ち姿はひどく都会じみて洗練されていたし、田舎者であるわたしたちにとって、それはどこまでも模範的で、まるでメディアに登場する芸能人のように均整の取れたうつくしさだった。
 やがて襟沢を歓迎する拍手が教室のそこかしこから鳴った。
 また同時に、いくつもの香気が意図的に発せられるのがわかった。それらは空気中で絡まり合って、あたかもひとつのブーケが差し出されるかのように彼女の前に降り注いだ。そのにおいを感じたのか、襟沢ははにかみながらも笑みを返して見せた。すると当然ながら、さらに多くの頬に朱が差していった。
 わたしはその香りと表情の喧騒を、心持ちすこし遠くから眺めていた。
 彼女からかすかに漂ってくる香気は、海のにおいがした。

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試し読みはここまでです。本編が気になる方は、サークル第三象限『あたらしいサハリンの静止点』をよろしくお願いいたします!

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