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『猫を棄てる:父親について語るとき』を読んで

#猫を棄てる感想文 #村上春樹  #村上主義者

 私が初めて読んだ村上春樹さんの作品は『1Q84』である。不思議なストーリー展開に引き込まれ、それが契機となりその後、代表的作品はほぼ全部読ませていただいた。世間でいう『ハルキスト』あるいは村上春樹さんのいう『村上主義者』を自称している。このたび『猫を棄てる』を読み私自身の父親とのかかわりや生い立ちをどうしても文章にしておきたい衝動にかられた。
 私の父は神奈川県足柄下郡国府津(こうづ)村(現在の小田原市国府津)にあった農家の男4人、女3人の7人兄弟の末っ子として昭和2年に生まれた。祖父は野菜の行商をして生計を立てていたが、父が8歳の時59歳で病死した。私の叔父にあたる次男は九州の航空隊に所属し偵察機のパイロットをしていたが、幸い生き延び後にホテルの支配人となった。もう一人別の叔父にあたる三男は海軍に所属しフィリピン沖で乗っていた駆逐艦が魚雷攻撃を受け沈没し帰らぬ人となった。父より2歳年上だが19歳の若さで遺骨は戻らなかった。父自身の経験としては戦時中の食糧難の苦労話を何度か聞かされたことがある。
 父は旧制中学校を卒業後、師範学校を出て小学校教員となり、昭和23年から大磯の小学校に勤務し始めた。昭和30年に商家の5人兄弟の三女と結婚し平塚市の借家に転居して昭和33年に私が生まれた。ちなみに、村上春樹さんと同様に私は一人っ子である。父の実家の蜜柑畑に新居を建て、私が小学校に入学する前の昭和40年に一家で国府津に転居した。母は自分の実家のある二宮の土地購入を考えていたようで、この転居にあまり気乗りがしなかったらしく私が成長してから度々愚痴を聞かされた。

 余談になるが、『ダンス・ダンス・ダンス』の中で主人公がユキを乗せて箱根からドライブをする場面と『国境の南、太陽の西』の中で主人公が島本さんを乗せて東京から箱根までドライブをする場面に国府津という地名が出てきたので驚いたことがある。国府津は明治時代、御殿場線の起点として東海道線が小田原までつながる前は栄えていたようだ。私は高校生まで住んでいたが、今では鄙びた場所で正直なところあまり好きではない。村上春樹さんは国府津に立ち寄ったことがあるのだろうか?


 私は地元の公立小学校に通った。教育者である父から勉強しろと言われた記憶はほとんどない。小学3年生の時、参考書を父からもらったことがきっかけで自ら勉強するようになった。むしろ母の方が私に習字やピアノを習わせたりすることに熱心であった。それでも小学生のころは父が教員であることを誇りに感じていた。父の指導もあり夏休みの自由課題で蝶の鱗粉転写やゾウリムシの顕微鏡観察をして発表し表彰されたことがある。こんな想い出もある。地方銀行の支店が新規開業した記念に小学生の絵画展示の募集があった。風景画を描いてみたが、うまくできず父が描き直したものをそのまま提出したことがある。実際に展示されたのかどうかは覚えていない。
 父は昭和31年から横浜の小学校に異動しその後20年間、東海道線を利用し片道1時間以上かけて電車通勤した。そのためか自動車運転免許証を持っていない。お蔭で当然、家族でドライブしたことは一度もなく週末はほとんど自宅で過ごし、庭の手入れや日曜大工をしていること多かった。父から誘われて一緒に遠くへ出掛けた思い出もあまりない。私が小学生だった6年間に夏休みなどに宿泊で家族旅行をしたことは一度もなかった。家族サービスなど全く無頓着な父であった。私が中学生になって私が自ら企画して、愛知県、和歌山県、石川県に2泊3日で3回だけ家族旅行をしたことが、ささやかな想い出である。
 私は大船にあるE学園中学校を受験したがあえなく不合格となり、公立中学校に進学した。学校の成績は良い方で、高校は学区外の県立H高校に進学した。私の従兄弟(父方の叔母の次男)が外科医をしていたことに憧れて医学部を3校受験したが全て不合格となった。1浪して御茶ノ水にあるS予備校に通い、理工学部3校と医学部2校を受験し幸い全て合格できた。当時のK大学医学部の学費は現在に比べればだいぶ安く、父の薄給でも何とか賄うことができたので初心を貫き昭和53年、そこへ進学を決めた。
 大学に入って初めて気が付いたのだが、医師の子息や教育歴の高い家庭の出身者が多かった。小学校教員の父と特別な教育のない母との間に生まれた私は正直なところ、バックボーンの違いを思い知らされ、肩身の狭い思いがあり、家族の話はなるべく避けるようにしていた。両親には感謝しているが、どうしてもほかの友人の家庭が恵まれているように見えてしまうのだ。必至に受験勉強をして大学に合格できたものの、それが精一杯で、それ以外の教養とか特技がないことを身に染みて感じた。大学入学後は所属したスポーツ部の活動と進級試験をパスするための勉強しかできなかった。
 私は昭和59年に医師国家試験に合格し、外科に入局した。大学病院やいくつかの関連施設で研修を受けた後、平成5年から外科医として北関東の公的病院に勤務し現在に至る。手術を中心とした仕事をしていたが、諸事情により平成20年から緩和ケアの仕事にかかわり始めた。現在は外科の仕事から離れ、癌の終末期の患者を年間100名前後看取っている。つらい思いをされている患者や家族に接する機会が多い。親よりも先立つ方や小さな子供を残して他界する方もいる。立ち会う者もなく逝かれる方や遺体を家族が引き取らないケースに遭遇することもある。家族と共に健康な普通の生活を送ることができることを感謝しなければならないと折に触れ己を戒めている。


 再び余談になるが、ここで村上春樹さん関連の話題をちょっと。小学生のとき、母方の伯父に連れられて初めてプロ野球観戦をしたのは神宮球場で行われたヤクルト・巨人戦であった。大学生のころトレーニングのため神宮外苑をランニングして瀬古利彦選手にあったことが何度かある。友人とホープ軒のラーメンを食べたことはあるが、私の口にはあまり合あわない。私は平成9年に結婚し、妻の父(義父)が所有している千駄ヶ谷のマンションの一室を時折利用させてもらっているのだが、かつてピーターキャットがあった場所から徒歩5分ほどの所だ。そういえば『村上さんのところ』に『僕は外科医だけには絶対になりたくない』と書いてあるのを読んだことがあり少し気になる。


 父は昭和52年、平塚市の小学校へ異動しやがて校長となり昭和63年に定年退職した。その後、公共施設で嘱託として2年間働き現在は年金生活者である。退職後、前立腺癌と肺癌の手術を受けたが、幸い明らかな再発はない。長生きしたお蔭で平成27年に高齢者叙勲として瑞宝双光章を戴いた。父の同胞は既に皆他界し、平成30年に母が肺炎のため88歳で亡くなった。父は92歳になるが家庭菜園を楽しみながら一人で暮らしている。父は素朴で正直な性格で、人当たりは優しいので他人からは悪くは見られないようだ。母が亡くなってから毎週末私が様子を見に行っているのだが家の中の整理や庭木の手入れなど趣味が合わず些細なことで口論になってしまう。父は私のことを誇りに思ってくれているらしいが、私はあまり好きになれない。父にこの文章を読んでもらうかどうか思案中である。


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1958年神奈川県生まれ男性
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