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【創作大賞2024応募作品】これからも私のまま生きていく。

現在26歳の私。名前は、咲希。

数年前に自閉症スペクトラム、ADHD、それに伴う不安障害の診断がついた。

2024年4月。私は新たな挑戦を始めた。

クリエイティブな仕事についてみようと就労継続支援B型に通うことにした。まだ初めて2か月が経っただけだ。上手くいくのかなんて保証はどこにもない。

だけどこれだけは言える。今までの人生よりきっと明るい。

私の26年間、色々な事があった。人生第2章を踏み出した今振り返ってみようと思う。


生まれた時から、少し変わっていた

1997年。
雪が降っている時期に私は産まれた。

父親はいない。

私は産まれた時から母と2人暮らし。
母は女手一つで私のことを育ててくれた。

産まれた時、産婦人科にはもう一人産まれた赤ちゃんがいたそう。
母が病室で、ずっと泣き止まない赤ちゃんの声を聴いていた記憶があるらしい。

それは私だった。

そして数日後、退院して自宅に帰った。
私は自宅でも泣き止まなかったそうだ。

母はどうしたらよいかわからなかった。解決策としておしゃぶりを購入した。

周囲からは、「早い」など色々言われたようだが、おしゃぶりをしたら私は泣き止んで落ち着いたと聞いた。

生後4ヶ月で保育園に通う

生後4か月。
私は保育園へ通うことになる。

母は仕事に出かけて私は保育園に通う。

保育園の頃の写真を見ると、先生が私を抱っこしている写真が多い。

「愛されてたんだ~、私!」

と明るいことを言っていたが、

「抱っこしないとすぐにどこか行ってしまうからでしょ」

と母からの一撃を喰らった。

確かに私は幼いころチョロチョロしていた。
すぐどこかに行っていた。
協調性なんてものはなかったけれど、生後数か月でそうだったとは。

赤ちゃんの頃は、これでもまだ平和だった。
少しずつ成長して大きくなると私は母も先生も困るような子どもへとなった。

保育園への登園拒否

保育園への登園拒否をした。

これには幼いながら理由があった。

牛乳のメーカーが変わって給食の時間が嫌になった。

男性の保育士が実習に来て、低い声が怖くて行きたくなかった。

朝の教育テレビの続きが見たくて、休みたいと言った日もあった。
このテレビの件に関しては、母を説得して休むことが決まった時間には既に番組が終わっていたため休む意味がなくなった。

保育園で信頼できた先生がいた

保育園の時、信頼できる優しい先生がいた。

私が何かあって登園拒否をした時、先生は子どもとしてではなく、
一人の人として私と真正面から向き合ってくれた。
今でも覚えている。

大きなホールにあるピアノの前で先生と私、そして母。
先生は正座をして怒るわけでもなく、真剣に私の顔を見ながらどうしたらよいかを話してくれた。そのおかげで私は保育園を卒園できた。

花壇に夢中で置いていかれた、散歩時間

散歩の時間に花壇の花が綺麗だからと、しゃがんでジーっと観察していた私。

その間に置いていかれたことは何度もある。
そんな時も遠くからいつ来るのか、ちゃんと見守っていてくれていた。

まあそれだから、いつも歩かないで乗せられるやつの常連客だった。乗せられるやつって、名前なんていうんだろう。

これ以外にもたくさんあるけど、先生と母のおかげで私は無事保育園を卒園することが出来た。

「病気にしたいのか!」医者に怒鳴られ、泣いた母

小学校に入学する頃。

母は周囲から、娘が発達障害の疑いがあるのではないかと言われるようになった。

1年生になった頃、一度児童精神科を受診することになった。
スマホもない時代に母が調べて予約を取って、数ヶ月間しばらく順番待ちをしてやっと受診した。

診察室に入って向かい側に医者、私の隣には母。

そんな状況で母が私の状況を医師に説明した。


それに対して医師は

「自分の子どもを病気にしたいのか!」

と母のことを怒鳴りつけた。

私は何も言えなかった。
母は泣いていた。

私はこんなところに二度と来るかと思った。母のことを泣かせるなんて最低だ。

その後何度か通って私は作業療法士の人と色々遊んだ。だけど、数回通っていくことをやめた。

医師からそんなことを言われて、どうにもならない環境の中、小学校生活はやらかしまくった。

変わっていたせいで、担任の標的となる


低学年の頃。

昼休みにAちゃんと遊ぶ約束をした。
だけど私は直前に気が変わってBちゃんと遊びたくなった。
Aちゃんには何も言えなかった。

遊んで帰ってきたら先生に授業中クラスの皆の前で怒られた。
悪かったのは私なのだが、この時、私は担任から標的にされていた。

低学年の頃の担任は、精神疾患になって休職をして復帰した先生だった。
そしてなぜか自分のイライラを人にぶつけていた。チョロチョロして、変わっていて、反論しない私はその先生の標的になった。

7×7が覚えられず、涙

2年生の時。
掛け算九九を覚えることになった。

暗唱して出来た人から座っていく。

私は最後まで立ち続けた。

7×7がいつまでも言えなかった。

もう出来なくて悲しかった。クラスで注目を浴びながらで余計に緊張して出来なかった。


ついに涙が出た。止まらなかった。


結局、給食時間になった。

その日私は当番だった。

汁物を注ぎながら先生に言われた。


「笑ってんじゃん。別に泣かなくてもいいじゃん。」


その後、10数年間。
泣いた後に切り替えて、すぐに笑ってはいけないという固定観念が私を苦しませた。

小学3年生、音楽と出会う

中学年になって、担任が変わった。

特に先生に問題はなかったもののクラス替えをしていじめっ子と同じクラスになった。

散々色々言われてメンタルが崩壊した。この頃から不登校の期間が出来始める。

そんな私だったが、小学三年生の頃「和太鼓」と「ピアノ」を習い始めた。
私からやりたいと母にお願いした。

聴覚過敏が音楽にあっていた。楽譜が読めなかったから、全てを耳から覚えた。

CDやカセットテープで録音して出来るようになった。

好きなことを見つけてやっていたからか、私は元気になった。

小5の始業式、終わりを感じた

やっと元気になった私だったが、5年生にあがった瞬間に2年間の終わりを感じた。

学校内でも有名な先生が担任になった。

当時はSNSなどが普及していないから問題にはならなかったが、現代に同じ言動をしていたら速攻でニュースになるような人だった。

何か自分が気に入らないことがあったら、
「立て!」
と言って立たせて怒りを児童にぶつけた。

少しできないだけで、小学校の低学年の子の方が出来ると言った。これは担任の口ぐせだった。

「自分がよければいい自己中人間だ」
ともよく言っていた。

私は数年前までこの2年間での出来事がトラウマになって怖くなっていた。それくらい変な先生だった。

自由研究の発表、理由もなくやり直し

小学6年生の冬休み明け。

クラス内で自由研究の発表があった。

私は「人類の成長過程」を調べて、まとめた。
朝の会で発表する番がきた。

一生懸命調べて作ったものだから、自信を持って発表した。
なぜかやり直しになった。
次の日も、またその次の日もやり直しになった。

理由はわからないまま1週間が経った。
私は母にも言えなかった。

やっと言えて、担任ではない事務の先生に母が電話で相談してくれた。

すると、朝の会で「もういいです。次の人」となった。

一体なんのためのやり直しだったのか。

「また先生の標的になったんだ」。

保健室登校を始めた

私は、もう学校に行きたくなくなった。

毎朝、母と戦った。休みたいと。



あるきっかけで、保健室登校をすることになった。ほかに保健室登校している児童は朝担任が見に来ることになっていた。

私は担任拒否だったから、信頼している事務の先生が玄関で出迎えてくれた。そして保健室にも度々、事務の先生が顔を出してくれた。
この事務の先生がいなかったら私は小学校を卒業できていないだろう。

友達がよそよそしくなった

保健室登校を始めたあたりから、それまで仲良くしていた友人がよそよそしくなった。

困っていたら助けてくれる。そんな風に見せているだけ。実際私が話しかけに行ったら、距離を取られるようになった。

この頃から私は人間不信を抱くようになり、目立たないように生きようと思い始めた。
黒い服を着るようにして、なるべく目立たないように過ごした。

嫌な小学生時代を助けてくれた先生

こんなにも嫌な小学生時代。
だけど、先程出てきた事務の先生が私を6年間助けてくれた。

休み時間、1人で遊びにグラウンドに行ったこともあったが、事務の先生はいつも見回りで私の行ったところにいた。
だから鉄棒の練習に付き合ってもらったり、遊び相手になってもらったり、話し相手にもなってもらった。
嫌なことの方が多い思い出だけど、事務の先生がいたおかげで、ほんの少しだけいい思い出ができた。
その後、その先生は校長先生になったそうだ。きっかけがあって、今から2年前にその先生と文通を始めた。10年以上ぶりだった。

中学校に入学した

小学校を卒業し、同級生のほとんどが同じ中学校に入学した。
別の小学校からも入学してきた。中学校生活が始まった。

私は心機一転。中学校に入って頑張ると決めた。勉強は嫌いではなかったし、公立の進学校に入りたかった。だから、頑張った。

だけど、上手くいかなかった。ほとんど不登校になった。
定期テストはクラスで名前を呼ばれるくらい上位だった。それが余計にいじめられる原因となった。

「からかい」なのか、「いじめ」なのか

中1の時。授業時間に男子から容姿をからわれた。それも毎回続いた。
最初は笑って対応していたが、段々と心が病んでいった。行きたくなくなった。

担任に相談した。男子生徒は「友達だと思って楽しかったのに」と言ったそうだ。
そこから私は人間不信が酷くなった。

中2になって切り替えて学校に行った。始業式初日に、同じクラスの生徒から「なんでいるの?」と言われた。
聞こえないふりをした。
中3になって、給食時間に何も言わない私を複数の生徒がからかったこともあった。

わざわざ助けに来てくれた友人

そんな中学生の頃。

3年間同じクラスだった女の子がいた。その子が私を助けてくれた。自分の家から遠いのに、わざわざ自転車に乗って自宅に来てくれた。

そして一緒に登校してくれたり、休んだ日のプリントを届けてくれた。時には学校の状況を教えてくれて雑談もした。ありがたかった。

不登校でも学習塾で勉強した

中学校時代は、いじめられたことなどが原因でほとんど不登校だった。それでも、定期テストは泣きながらでも登校し全て受けた。

「どうして休んでいたのに、僕より点数いいの?」

隣の席の男子に言われるくらい点数はよかった。だから内申点のランクは少しだけあった。

その頃から大学受験も視野に入れていたため、母に頼んで学習塾に通わせてもらっていた。それもあって勉強は人並みに出来た。

私立高校に入学した

内申点が低くて、進学校には入れなかったものの私立高校に入ることが出来た。

入れた高校の偏差値は、高くなかった。
部活が盛んだったことと、私と同じように不登校だったが勉強ができた子が数人いたため、上位にいる生徒は国公立大学や難関私立大学に入る高校だった。

運動部は大変だった

一年生の頃、運動部に入った。
運動部に入ってみたかったし、未経験でもよかったから入部した。

私は運動神経もそこそこで、コツを掴むとすぐに出来た。高体連の前にユニフォームを貰う時、一年生で1番いい番号をもらった。

一年生の部員の中で、1人だけ中学からの経験者がいた。それもあったからなのか、部の一年生からいじめのようなものに合いはじめて退部した。

部活をやっていた時、勉強との両立ができなくて評定が悪くなった。退部して、少しずつ成績が上がってきた。

いい先生に恵まれた高校時代

この頃から学校に通いにくくなって心療内科のクリニックに行き始めた。

高校の時は、いい先生に恵まれた。
学校に行けなくなった時に、放課後時間を取ってもらって話を聞いてくれた先生がいた。

「なんでも聞いていいぞ」
と、質問に答えてくれた。

その先生が高校3年間、私を助けてくれた。ここでも私は助けてくれる人に出会った。ありがたかった。

コミュニケーションでパニックになる

高校時代は生徒会執行部に推薦されて入り、副会長も務めた。精神的にも成長できる時期だった。

ただこの時期の私は急にパニックになることが多かった。高校はコミュニケーションを取れないと友達ができないし、上手くいかなかったこと。そして生徒会で話さないといけなかったこと。これがパニックの原因だったのでは?と26歳になってから分かった。

パニックになりながらも、友人や先生に助けてもらい高校を卒業することができた。

一年浪人し、医療従事者を目指した


高校卒業後、1年浪人した。

小さい頃からの夢であった看護師の道に進むため大学の看護学部に入学した。

小学生の頃に出会った児童精神科の先生が嫌だったこと。
高校生の頃に出会った精神科の先生がいい人で、そんな医療従事者になりたかったこと。

それもあり、ずっと医療従事者を目指していた。

医療従事者の中でも、患者の近くにいられる存在の看護師を志して勉強した。

心身ともに体調を崩した、大学時代

大学時代は大変だった。

実家から4時間以上離れたところで一人暮らしをしていた。
一人暮らしをしながら、ほぼ毎日レポートと課題をやっているうちに睡眠時間が短くなった。
技術の練習を放課後に残ってやった。
だが、ペアでないと出来ないため、コミュニケーションが必要だった。

知らないうちにストレスがかかっていた。
突っ走っているうちに心身ともに調子を崩した。

点滴を受けてから大学に行き講義を受けたこともあった。
ある日突然意識が朦朧として車椅子で保健室に運ばれた。もう限界だった。

大学2年次の前期が終わった頃、私は大学を中退した。

約5年の自宅療養

中退して実家に帰った。それから約5年。自宅療養をした。
自宅療養の間、最悪に体調が悪かった。

めまいがして救急車で運ばれたこともあった。
救急隊員があまりにも救急車を呼んでしまったと悲しそうな私を見て、
「大丈夫だよ!なんでもなかったら帰れるから!」
と優しい一言をかけてくれた。
今でも情景を覚えている。感謝しかない。

誤診で急性期病棟へ入院

統合失調症での誤診で、精神科の急性期病棟に入院したこともあった。閉鎖病棟の中でたくさんの出来事が起きてトラウマになった。人生で最悪な約50日間だった。

「赤ちゃん返りじゃないの?」と医師に笑いながら言われた。

自分のベッドのタンスから物を盗まれた。
勝手にカーテンを開けてジュースを渡そうとしてきた患者がいた。
体調が悪くてフラフラと歩いていたことを、医者や看護師にバカにされた。
妄想性障害の患者から妄想の的にされ、他の患者に私のことを言いふらされた。

ヒールを履いた患者に朝4時に毎日起こされることになる。
など、書き始めたらキリがないほど、色々な出来事が起きた。
入院どころか、自宅よりも落ち着かなかった。

「統合失調症は1日で治った」

最後は、「統合失調症は1日で治った」と医師から、よくわからないことを言われた。

それなら私はなぜ入院したのか。
統合失調症ではないのに、どうして統合失調症の薬を処方され服用していたのか。

今でも疑問が残っている。

身体に合わない薬を飲んで数ヶ月、私は薬を飲んだ後に嘔吐した。もうダメだと思った。

病院を変えることにした。

転院先で「普通じゃないですよね?」

病院を変えたが、先生が合わなかった。

「普通じゃないですよね」
って怒鳴られた。

感情の起伏が激しくて怒る時もあった私。

その私の怒りの言葉を聞いて医師は感情的になり怒鳴った。

どんどん追い詰めてきた。

「入院だ!」とか色々言われた。

そして私が少し落ち着き始めたところで、薬を沢山処方した。


薬剤師さんに「こんなに増やして大丈夫?」と言われるほどだった。

もう帰りに、いなくなりたいと思った。
医師も薬も信用したくなくなった。

いい先生に出会った

普通じゃないから病院に行っているのに、そんなことを言われたら相談はできない。

そう思い、数ヶ月後に別の先生に変えてもらった。
この先生は私にあっていた。

「三日坊主を何回も」という名言を教えてくれた先生だ。

先生はあっていたけれど、違う問題が起きたため一年経って現在通っているクリニックに行くことにした。

自分に合った治療が受けられるまで

今では、自閉症スペクトラムとADHD、それに伴う不安障害、と診断がついて自分にあった治療を受けられている。

自分にあった治療を受けられるまでの数年間の間、大変だった。

謎の不随運動

大きな大学病院の神経内科も紹介されて行った。

精神的なものなのか、原因は今でもわからないが身体の不随運動が起こるようになった。

ある日、夜に左の顔面が痙攣して止まらなくなった。何時間も続くため、近所の脳神経外科を受診し、神経内科の受診を勧められた。

大学病院の神経内科で難病の疑いがあると言われた。色々検査した。結果は陰性だった。安心した。様子見の期間も含めて大学病院に1年通った。


この期間は大変だったが、私の人生にとっていい経験となった。
私たちの神経が健康で生きていることは奇跡に近い。だから一生懸命生きていこうと前を向くようになった。

その後、症状は落ち着き始めた。

合う先生に出会ってからの私

現在の心療内科に通い始めた頃から私の調子は良い。

初診の日から先生は私にこう言った。

「今までADHDと言われたことはありませんか?」

衝動的なことや、忘れ物が多いことから自覚はあったし、心理検査にも結果が高値に出ていた。

それでも今までの医師には「自己対処できているから大丈夫」と言われていた。
だが、自分でも限界だった。

そのことを伝えると
「ADHDの治療薬を試してみませんか?」
と言われた。

初めて会った先生が、自分の困りごとをわかってくれたことが嬉しかった。

薬があっていたし、先生もあっていた。

自己肯定感も上がり始めた

合っている医師に出会ってから、私の自己肯定感は少しずつ上がり始めた。

すぐ自分が悪いと思ってしまう私に、
「自分が悪いと思わないほうがいいよ〜」
と主治医は言った。

コミュニケーションが苦手な私に
「一度に全てを話す必要はないよ〜」
と教えてくれた。

ADHDの特性をマイナスに捉えていた私に
「その特性を活かせる仕事についたらいい!」
と言ってくれた。

現在はデザインの勉強中

その1年後。それが現在。

私はデザインの勉強をしながら働く練習をするために就労継続支援B型に通っている。

今まで、事務系の仕事に就こうと就労移行支援に通っていたが、合わず体調を崩してやめた。3カ所行ったが、どれも合わなかった。

今回のB型は、自分に合っているようで、2ヶ月楽しく続けられている。
数日休んだこともあったが、不安なことも毎回聞いてくれる支援員がいるから続けられている。

そして、苦手な5月を欠席なしで乗り越えられた。

このまま続けられたらいいと思いながら、毎日焦らず楽しくをモットーに人生の第二章を歩き始めた。

1秒先も未来

過去に、保育園登園拒否、不登校、保健室登校、いじめ、浪人、入院、自宅療養などを経験していても、人生第二章は明るく踏み出せる。

一生懸命何かを頑張っていたら、助けてくれる人も現れる。
人生、嫌なことも沢山ある。時にはいなくなりたいと思うこともあるかもしれない。

だけど、とりあえず命だけあれば明るい人生が待っているかもしれない。

1秒先も、未来。

だから、何があるかは誰にもわからない。
生きていたら、それだけでいい。
多くは望まないし、高望みもしない。

今日も明日も、これからも。
ゆっくりと私は人生の第二章を歩いていきたい。



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