『人間失格』を読んだ。

※小説に影響されて文体が引っ張られているかもしれません。

学生時代に読みたかった小説の一つが太宰治の作品群である。大学院に行ったり、留年したりとたっぷりと時間はあったはずなのだが、高校の途中から始まった鬱がひどくなるにつれて、いわば「後天性の文盲」とでも言っていいような状態に陥り、ゆっくりと読書することが不可能になっていたから無理だった。特に太宰治の独特の文体はそのような中で読むのに苦労し、途中で投げ出してしまった。中でも『人間失格』は、奇妙な引力のある作品だった。まず、出だしからすごい。「恥の多い人生を送ってきました」である。ここまで激しい自己嫌悪を端的に表す言葉が冒頭に現れて、背筋が寒くなる思いがした。
しかも読み進めるにつれて、おそらく太宰自身がモデルと言って間違いのない主人公葉蔵があまりに自分と似たタイプの人間であることから、どんどん鬱の深みにはまっていくのである。私は作中の彼のように薬物中毒になることはないが、自己嫌悪のあり方や、演技をして「道化」になるところがそっくりだった(私は自分をピエロと呼んでいた時期がある)。普通の人間と自分の間に厚い壁があって、でも向こうはだいたい自分を同じ人間の仲間だと思っていて、それに合わせるのに苦労しているのがよく理解できた。端的に言うと、鬱の私が鬱な太宰の独白に心を捉えられてしまい、鬱のデフレスパイラルに陥る、そんな感じがした。
十年近く経ってから今回は読破することができたが、今回もまったくそれと同じ感覚を持った。しかも今回の方が若く浅学だった前回に比べて少なからず経験と知恵を得た分、よりその「鬱」がリアルに感じられたのだ。
太宰治は病跡学では「境界性パーソナリティ障害」だったと推定されている。他にも、「ADHD説」を提唱する学者を見たこともある。「人間失格」と、「斜陽」、それに昔教科書に載っていた「富嶽百景」しかまともに読んだことがない私が偉そうなことは言えないが、たぶんこの「人間失格」は自伝的な性格が濃い作品で、太宰治の内面が現れた作品の筆頭であることは間違いない。だからこの作品をもって太宰治の病理を推定しようとするのは一定の道理があると思う。
私は、太宰治には明らかな「自閉スペクトラム症」があったと考える。それは、作中にくどいほどに登場する他者理解できなさへの苦悩が現れていることがまず理由としてある。しかし、より重要なのは、彼の偏執性である。なんの偏執かといえば、彼はある程度人間とコミュニケーションすることができるにも関わらず、自分と他者の間を徹底的に隔てる壁があると信じて疑わないという偏執である。これは、不安障害の一種と私の目には映った。「自分のことをうまく表現できないかもしれない」「相手は、私のことを分かってくれないかもしれない」という不安である。これに付き纏われている限り、彼が他者不信から他者理解のパラダイムに移行することは決してできないだろう。自閉スペクトラム症の場合、一般よりも不安を強く感じやすく、同じ内容のことをクヨクヨと気にし続ける人が多い。
他方、看過してはならないのは彼にあったと思われる複雑性PTSDである。これは虐待やいじめを受けた子どもや、その経験を生き抜いてきた大人に見られる。太宰治自身が虐待を受けたかどうかは、直接彼の幼少期を知る者がもう全て鬼籍に入ってしまっていることから証言を得るわけにもいかず判断することは困難だが、「人間失格」の主人公葉蔵の述懐には、幼少期に下男や女中から受けた辱め(作中では「犯されていた」とある)について記されている。これは、性的虐待があったということを指している。そして後々、彼がそして、作者自身が長じてから女性関係において放埒となり、最後には女性と情死を遂げることに成功することは、健全な精神的性成熟を遂げられなかったことを傍証している。このため、私は太宰自身に程度の多寡はともかくとしてその経験はあったと推測する。しかも、自分は奔放な性関係を持ちながら、作中で内縁の妻ヨシ子が他人に寝取られる(これはおそらく強制わいせつにあたる類で、ヨシ子が不貞を働いたという意味ではない)現場を目撃した時に、「二匹の動物がいた」と記す点から、性的なものへの嫌悪感すら抱いていたことが推察される。つまり、彼は自分自身が「色魔」(作中、葉蔵の女遊びを知っている悪友堀木はたびたび彼をこう呼ぶ)でありながら、情事に関して嫌悪感を持つと言う非常に複雑な葛藤状態に置かれていた。
この事実は「境界性パーソナリティ障害」の原因となりうる性的トラウマ体験があったことを示唆する。先に仮診断として名前を挙げた自閉スペクトラム症と境界例は両立しうる。したがって、葉蔵(と、おそらく太宰本人)は生まれつきの特性として自閉スペクトラム症を持ち、後天的に使用人からの性的虐待という傷を負ったことで複雑性PTSDと境界性パーソナリティ障害を持った、と私は推定する。

ここまでダラダラと書いたのは素人が太宰の病跡学的考察を試みる、という内容だった。
しかしまだ書き足りない部分がある。この作品が私の心を捉えて離さない理由のもう一つは、彼の故郷への感傷めいた郷愁だ。これについて、また別の機会に書きたいと思う。

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