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石垣島旅行記Ⅲ

 4月10日。朝いちばんでバイクを返しに行く。港へむかう途中、桃林寺に立ち寄った。寺院の美しさはもちろん、そばにしつらえられた枯山水の琉球庭園に惹かれた。珊瑚の石垣に、蔓性植物や蘇鉄などが烈しく繁茂している。庭園というより、ちいさな森のようだった。

 竹富島行きのチケットを買い、小型船に乗りこんだ。10分ほどで到着し、まずは村の中心部へ。白い砂に坐りこむ水牛、石垣からあふれこぼれる鮮やかなブーゲンビリア、宙で赤く燃えるデイゴの花。村をつっきり、星砂で知られるカイジ浜へ。透きとおる淡いブルーの水面のうつくしさに息をのむ。

 浜づたいにコンドイ浜へ向かう。あおじろく晴れた空の下、いくつもの階調にわかれた青の水面が静かに凪いでいる。遠浅の水の向こうに、白い線形の砂地があった。水の透明度が高すぎて、白くうすい島が宙に浮かんでいるようにも見える。どこまでも平らかにひろがる、くるぶしほどの浅瀬。水と浜のあわいがどんどんあいまいになってゆく。
 コンドイ浜は家族づれでにぎわっていた。お昼になったのでいったん村まで戻り、お店で油そばをたべた。生マンゴースムージーを片手にふたたび浜へ。人けのない木陰をえらんで腰をおろした。
 サガンをもってくるべきだった、とぼんやり思う。あるいはデュラス、ル・クレジオでも。南国の海を眼前に、フランスの作家の本を読みたい。しかし手元にあるのはちくま文庫『泉鏡花』である。パッキングのとき「山吹」を再読したい気分だったので選んだが、はたしてバカンスへの携行に適した本だっただろうか。
 しかしいざ読みはじめてみると、仄暗く耽美な打擲のシーンと、青藍の水平線のとりあわせは存外わるくなかった。みずみずしいひかりの充溢と幸福そうな家族の笑い声が、甘い香気の纏わるおぐらい小世界を惨くあかるくふちどって、豪奢な狂気をよりきわだたせている。
 「天守物語」も再読した。みごとな青天の海を眼下に、濃厚な血のいろをした完璧なカクテルをひといきに干したような気分。酔ったような恍惚とした心持ちのままぼんやりと午後を過ごした。
 浅瀬に足をつけて遊んだり、村をゆっくり散歩したあと、17時の便で石垣島へ戻る。

 ユーグレナモールでおみやげをさがす。実はどうしてもほしいものがあった。「石敢當」の置物だ。石敢當とは沖縄県の町村でよく見かける魔除けの石碑である。住宅街の道路、とくにつきあたりに散見される。

 字面や佇まいがなんとなく好きで、見かけるたびに写真を撮っていた。しかしその置物などそれほど都合よく見つかるものでもないだろうと思っていたが、最初に入ったお店で売っていた。これは僥倖、とにこにこしながらレジにもってゆく。
 宿に戻って共有スペースでお弁当と烏賊のさしみをたべていると、宿泊客の女性たちがやってきた。サップヨガがとてもたのしかったという話をきいた。次回ぜひ挑戦したい。午後9時ごろ就寝。

 4月11日。日の出前に起きられたので、ちかくの海へ向かう。赤と紫、オレンジ、ピンク、段々になったおだやかな色あいが、あざやかな彩度に疲れた目に染む。

 宿にもどり、いつものように庭で朝食を済ませる。荷造りを済ませたあとバスで空港をめざし、10時半ごろの飛行機に乗った。ダウンロードしておいたアニメ「PSYCHO-PASS」を再見しているうちに関空に着いていた。
 頭痛がする。お腹の調子も悪い。南国でのんびりするつもりが、気づけばフェリーに乗ったりバイクで島じゅうかけめぐったり、休むどころかこの先一週間は引きずりそうな疲労を抱える結果になった。途中からは、観光名所をスタンプラリーのようにまわってしまっているような気もしていた。みるべきとされるものをみなければ、といつもくたくたになるまで動きまわってしまう。しんどい方へ、わざわざ自分から向かっているような。
 やはり私は習性として、登山のような旅しかできないのかもしれない。絶えず苦しい思いをして――ときにはみずから追い求めすらして――、己のつらさばかり熱心に覗きこみ、そうしてほんのときたま顔をあげて、美しい景色を垣間見る。その一瞬の記憶を握りしめ、あとはまたつらく長い旅路を延々とつづける。そういうやり方。そして、人生もまた。
 それでも懲りずにつぎの旅の計画を立てようとしているところが、ほんとうに救いようがないなと自分で呆れる。今年じゅうに、タイかベトナムを訪れたい。さらにその次は、数か月単位で東欧へ。
 今度こそゆっくり、のんびり、癒しの旅を。たぶん叶わないけれど、それでもいちおう願っておく。

今回のおみやげ。石敢當の置物と八重山ゲンキ乳業のステッカー、かわいい缶入りのさんぴん茶。

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