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自分への覚悟が「NO」の勇気になる【家族編】

人生は、ままならないことだらけだ。

大人になってからは挫折の連続だ。理不尽さと立ち向かいながらトドメを刺されて打ちのめされる。ギリギリのHPとMPで岩陰に逃げ込み、息を潜めて回復を待つ。「逃げ」は哺乳類を進化させた大きな鍵だ。逃げの達人である人類は、今やこの星を征服した。

だから、逃げの手を打つのは生き物として正しい戦法なのだ。

進退を繰り返しながらレベル上げしていき、防御力の高い防具をゲットしていきながら、攻撃力のある武具も時々アップグレードしていく。時々、必殺技や治癒魔法みたいなもののコツも覚えていく。

そうして、目の前に現れる他人を仲間にしたり、危険な敵を打ち倒す。歳を重ねることは死に向かう体の分だけ、生き抜くために心と頭を鍛えてカバーしていくことを意味する。

だから「▼仲間にしますか?」には、しっかり考えて「YES」「NO」を見極めなきゃいけない。必要に応じてパーティー編成も変えていくことになる。

人生のパーティーメンバーの主要キャラは「家族」。MPを補給してくれる「友人」に対してHP・MPの両面を補給してくれるセーフティネットの役割を担ってくれる。

心強い。
だから昔から人間は血縁関係を強固に守ってきた。血と土地(財産)はイコールで、時に他の家族の命を奪いながら己の血縁を守ってきた。だから「親子(血縁)でしょ」という言葉は、全ての理屈をぶっ殺してくれる最強魔法になる。


1.「家族」は辞められるか?

私にとって家族は、パーティーメンバーなんかじゃなく「ゾンビ」だ。
アンデッドなので戦っても復活してくるし、時々まったく話が通じず会話が成立しない。そのうえ、噛みついて感染させ、私も情動120%でただ従うだけのゾンビにしようとしてくる。

この特殊なゾンビと戦っても私はレベルアップしない。ただダメージを受け続けるし、毒性が強いから攻撃を受ければ最後、持続性のある毒でじわじわとHPもMPも削られていく。

「結婚しないなんて許されるはずがない!!!」
「自分勝手にもほどがある!!許されない!!」
「結婚しないなら親子の縁を切る!!!」

先日、結婚のプレッシャーから離脱した私ですが、当然ながら両親はその土俵のうえに未だいることをすっかり忘れていました。その事実を忘れ、のらりくらりと逃げていた私も、恋人との同棲までのカウントダウンが始まってついに捕まったのでした。

「こっちが黙ってれば図に乗りやがって・私たちをバカにしてるんだろうけど、バカ女はお前だからな!」
「(親が子どもに)言って聞かせなきゃならないし、(子どもは親に)絶対に従わなくちゃいけない」
「結婚もしてない女が男とフラフラと。非常識極まりない!!」
「あんたのせいで私たちは本当に恥ずかしい思いをしている」
「結婚しなきゃいずれ男に捨てられたと言われるようになるに決まってる!」

突然に怒鳴られ、まくしたてられた私は少しの間ポカンとした。

なぜ、子どもは親に絶対服従しなければいけないのか
誰にとっての「常識/非常識」なのか
「男に捨てられた」として何が悪いのか

第一声「結婚しないなんて許されるはずがない!!!」の主語は一体誰か。世間と呼ばれる日本社会か? 21世紀、保守的価値観の若者も少なくない日本だが、晩婚化が進んで単身世帯も多い。恋人のいない人、離婚や死別した人。結婚していない理由は様々あっても、未婚を罰する法律はない。

つまり、親が許さない、親に従わなければならない!と母は絶叫したことになる。


2.なぜ、子どもは親に絶対服従しなければいけないのか

数年前、恋人との交際を続けるには婚約しなきゃいけない、婚約指輪がなければ認めない!なることを親に言われたことがあった。一方、結婚観が真逆の恋人は最大限の譲歩で婚約を認めたが、強迫観念でもあるのかというくらいに婚約指輪を強固に否定。その結果、私は自分で指輪を選び、自分で働いて稼いだお金(当時の月給1.5倍くらい、兄が嫁に贈ったダイヤモンドの倍のカラット数)で買った。まばゆく光り輝くダイヤモンドを前に両親は黙りこくり、星のついたお店の個室でニコニコと、はりぼて男に微笑んでいた。

あれから数年が経過した今。

ふと気づいた。あのとき、私は両親に従う必要性はあったのか?と。親は「責任ある男に娘を託さねば娘は不幸になる」という心配のもと、恋人を男としてテストした。残念ながら恋人は死語「ダメンズ」に分類される「理想の結婚相手」の条件を満たさない男で、本人も自覚しているし私も知っている。

そんなわけで私は、この婿テストをチートしまくって親を騙した。それほど彼を好きだったのだろうし、親にも彼を好きになってほしいと考えていたのだ。皆が仲良くなれることが幸せの条件だと信じていた。

偽ったところで他人は変えられない。

彼は自分の分しか責任は負わない男だし「優しさ」という教養を嫌うホモソを拭い去れないクソ男気質も潜んでいる。そのうえ情緒不安定で、やたらと腹を壊すし常に健康の心配をしながら酒とラーメンを摂取し自己嫌悪している。一緒にいて容易に世間のいう「幸せ」になれる相手では到底ないのだ。非常に難しい人間で、それは私も同じだ。

両親が彼を認めることは決してない。
彼が私よりも優れた言語能力を持ち、私よりも上位の学位を取得し、彼が私よりも年収が高くビッグネームと一緒に働いていようが、彼を認めることはない。彼が日本人でなく、彼の家族が日本で永住していない限り、彼は娘を捨てるか、奪う男でしかない。

彼の両親もまた、私の母の脅威なのだ。
母が失敗した「親のあるべき姿」の権化のような人たちで、私が憧れる存在として、恐れ憎み、呪いをかけたがる。言葉も通じず、特にパッとしない謎の外国人の娘を、ただ自分の愛する子どもが愛する存在として無条件に受け入れ、抱きしめて笑顔を向ける。どんな時も子どもたちを信じ、応援し、見守っている。頼みも支援も惜しまない。

真逆の「家族」の姿に、母は「そんな人間なんていない。嫁も所詮はあかの他人。あんたなんて無関係の東洋人の女ってだけ。バカにされてる。そのうち化けの皮が剥がれていじめられるだけ。あんたの味方はお母さんたちだけなんだから」と呪いをかける。

「お母さんたちしかいないのよ、あんたのことを本当に心配して嫌なことも言ってあげられるのは。男なんてしょせん他人だし獣。あんたを守ってあげられるのはお母さんたちだけ」
「あんたは世間知らずで何もわかってない。だからお母さんたちの言うことを聞かなきゃ痛い目しかみないのよ。黙って言うことをききなさい」

子が親に従うという親子のあり方を説く儒教は、「子のあり方」だけでなく「親のあり方」も説いている。その儒教だって”思想”として時代とともに変遷してきたものだ。

本当に私の味方なら。
私の子ども時代を返してほしい。
本当に私の味方だというのなら、私を傷つける言葉を選ぶはずはない。
なんの支援もなく、ただ殴りかかり足を掴んで離すまいとするその姿は、私の目には「味方」ではなく「ゾンビ」にしか見えなくなってしまった。

「泣くな」という母の命令に、叩かれながら泣き声を飲み込んだ。「出ていけ」と言われ、裸のまま建物の隅で丸まっていた。「お前なんか一人で生きていかない、親に生かされてるだけ」と言われ、学費と生活費を稼ぎながら家事で睡眠時間を削っていた。

親の言うことを聞いて幸せになれた試しがない。
私が幸福を噛み締めるとき。それは全て「私自身が選び、勝ちとった自由や結果」に基づく瞬間だけだ。

幸か不幸か、私にかかった呪いは解けてしまったのだ。振り返れば、パーティーメンバーと思っていた母はゾンビだった。エンカウンターで仲間になった男にゾンビの私は噛みつき、ぶん殴られて呪いが解けてしまった。

私はシンデレラではないし、選ばれた勇者でもない。
元ゾンビの冒険者だ。

3.誰が「常識」を語るのか

親には非常識と言われる私でも、「常識的に生きる」ことは理想的だと思うし叶うならそれが一番だと思っている。

まず、常識的に生きていると「敵」がいない。
ダンジョンに出なくて済むのが一番なわけで、生まれた村や町で育ち、村や町で働き、結婚して子をつくり、子や孫に慕われる爺や婆になって死ぬ。これほど安心で安全な生き方があるだろうか? 一番長生きできるし心にも体にも良い。

普通に生きたい。
普通の幸せでいいから、穏やかにありきたりに幸せになりたい。

私は結婚制度を否定していないし、法治国家で生きるうえでは合理的な選択だと思っている。「常識的に生きる」ことは非常に合理的で、社会に生きる者としては「生きやすさ」に直結している。

つまり「非常識」とは「生きづらさ」。私だって絵に描いたような常識のなかで生きたいわけである。常識的な女性として、常識的な結婚をし、常識的な子を産み、常識的な生涯を送り、常識的な葬儀をしてもらえば、あの世のことはよく知らないが安心できるだろう。

残念ながら無理なので、世間一般的な生き方は諦めた。
幼少期から成人後まで妹を性的虐待し続けた兄、躾として子どもを支配し暴力をふるっていた母、結婚生活=買春の歴史で二重生活や子どもより若い女性とパパ活をしていた父。

常識とは何でしょうか?

それが当たり前だと思っていた私の「常識」は、大学生になって友人の家族の話を聞いて「おかしい」ことにようやく気づく。子どもの頃から誰を見ても性的に興奮したり魅力を感じることもなかった自分の性的指向にアラサーになって気づく。

社会はものじゃない。生きている人間たちの間にあるものだ。息をする生き物のように刻一刻と変化しているのだ。突然変異するわけでもなく、生き物のように時間とともに変化していく。

ベールを外せば、「アダルトチルドレン」や「毒親」は珍しくないことに気づかされる。経済状況の変化で世代ごとで見る現実は変わり、理想も変化していく。結婚も生活も生き様も変わっていく。

私たち「親子」という二つの世代の間にある断絶は、時代の結果でもあるし、時の彼方に置いていかれる「常識」と、手を伸ばして掴もうとしている未来の「常識」の間にある遠い、遠い距離そのものだ。

私にできることは肩を竦めるだけだ。

「結婚もしてない女が男とフラフラと。非常識極まりない!!」
「あんたのせいで私たちは本当に恥ずかしい思いをしている」
「結婚しなきゃいずれ男に捨てられたと言われるようになるに決まってる!」

知らんがな。
好きなこと言いたい人たちには好きなことを言わせておけばいい。飯の足しにもならんのなら、捨てておけばいい。面倒をみてくれるわけでもないのに、他人の噂話する暇があるなら、他人をこき下ろすことでしか自己承認を得られない自分のみっともなさでも改めろ。

「好きで常識から外れてるわけではないし、べつに他人に恥ずかしいと思うような生き方もしてない。バカにする人が私を幸せにしてくれるわけじゃないなら、聞く耳を持つ必要もない」
「やりたい放題して、常識からかけ離れたクソ家族が私に常識を求めるなんてちゃんちゃらおかしい。クソを常識で塗ったくったところでクソでしかない」

火に油を注いだのは確かですが、常識を語る人ほど常識にこだわる理由がある、家族の見栄のための「常識」なんてクソ喰らえというのが正直な心情だ。

「男に捨てられようがそれがどうした。女は男に拾われ、男に保持されてるわけでもない。人間として、個人として私を見ているのなら「捨てられた」と表現することはないでしょ? あえてその表現を使ってまで私の噂話をしたがる人間は、すでに悪意を持ってる。人が出会い、別れることは自然なことだよ。やれることは自分の尻を拭うだけでいい。他人のクソをわざわざ拾わなきゃいけない道理もない」

もう私は物事を「常識/非常識」の二分でしか見られない眼鏡は捨ててしまったのだ。人はもっと面倒で複雑で厄介な生き物だ。少なくとも私はそうだし、私の家族もそうで、私が選んでしまった恋人もそうだ。

常識的に生きている人は、私には幸運に見えるけれど、対人関係や物事にたゆまぬ努力を払う人たちなのだ。その「常識」と悪意のために用いられる単語「常識」は決して同じものなんかじゃない。

「血の繋がった兄からの性被害も、家庭内の性認識も全てが歪んでいる。そんな私が常識的な結婚をすることも、常識的な人が私の全てを受け入れることも、常識的に考えればできないほうが自然でしょ」
父「確かに。誰もそんな女と結婚したくないだろう」
母「そんなことない。あんたはそれでも素晴らしい存在。卑下しなくても」
「そう言いながら、彼にはそれを隠しておくべきで、教えたことはバカだとお母さんは言う。でも彼は全部を知ったうえで私を選んだ。私たちは、お互いの嫌な部分も全て知ったうえで一緒に成長していこうと頑張ってる。どんな結末を迎えても、自分に誠実であれるために。
私は家族から傷つけられても、自分の力で自分を誇れる人間であろうと生きてる。心配することは攻撃することじゃない。怒鳴ることも理屈の通らない言葉も、私はもう受け取らない」

非常識だと責められても、自分に恥じない生き方なら目を背けず胸を張ればいい。


4.親子の縁を切るのは簡単か?

「結婚しないなら親子の縁を切る!!!」

そもそも恋愛すらしていなかったら、そんな啖呵を吐くこともないだろうから、真に受けるのも本当はバカバカしいのかもしれない。それでも「親より男をとる」だとか「男より親を選んでほしい」とか、そういうものを迫られることに、もううんざりしてしまった。

「どうしようもない」と肩を竦めれば、母の怒りは沸点を超えた。罵詈雑言の嵐はブロックボタン一つで私の目の前から消えた。でも現実の世界にブロックボタンはない。だから縁を切るというのは、思いのほか難しいものなんじゃないだろうか。

縁を切る。
親子の縁は簡単に切れるものか。

この数日、そのことを考えている。

先日の記事で書いた、恋人からの「どうして一人暮らしを早くしなかったの?」という問いかけ。言い換えれば「なぜ親子の縁を切らないの? それは親との共依存が続いているんじゃないの?」という問いかけでもあるんだと今は思うようになった。

親子の縁を切った友人がいる。
ほかのきょうだいたちが早々に親を見限るなか、彼女は最後まで踏ん張り、母親の再婚を機に縁を切ったと話していた。「これで本当に安心できる…。もう迷惑をかけられることも、理不尽な罪悪感を持たされることもない」と当時、彼女は言っていた。


今なら「理不尽な罪悪感を持たされることもない」という言葉に、身に染みて共感できる。

「生んでやった恩も忘れるなんて人間のクズ」
「どれだけお金をかけて良い教育を受けさせたと思ってるんだ? 恩を仇にして返すために金を払ってきたわけじゃない。今のお前をつくってやったのは全部、親だ」

幼い頃から、待望の赤ん坊だった兄に対し、私は想定外の妊娠で堕胎する予定が父が頭を床に擦り付けて頼み込んで生まれてきたと聞かされてきた。

となれば、確かに「生んでくれてありがとう」は成立するのかもしれない。けれど、避妊に失敗したのは親のほうであって、私が湧いたわけでもなんでもない。暴力にまみれた家庭で受けた傷は「親のせい」にすることを許さないけれど、教育は「親のおかげ」と言う。

込み上げる吐き気は、友人が言っていた「理不尽な罪悪感」そのものだ。

そもそも、子どもに恩を着せる人間は、親になるべきじゃない。
その一言に尽きる。私は十分に対価を払ったとも思う。毒親育ちしかわからない体験に基づく生き方に終止符を打たなければ、苦しみ続けることになる。そう思わせるには、母の言動は十分だった。

今は母の存在を思うだけで息を止めたくなる。

幼い頃から日が暮れていくと不安を覚えた。
家にいなければ怒られ叩かれることもない。でも門限の17時までに帰らなければ怒られ叩かれる。何度も時計を確認し、惜しみながら遊ぶ。日が暮れていくほど、ワクワクしていた気持ちも萎んでいく。

大人になっても変わらない。
体に不安と恐怖が刻まれている。日が暮れれば寂しさを覚え、不安と恐怖で心が塗り潰されていく。母と縁を切れたら、私は日暮れや夜に完全な安心感を覚えられるだろうか?

そう思いながら、私は縁の切り方を知らず、子どもの時のまま困惑している。
未だに蝕まれているのだ。
実は、未だに親から逃げられると思えていないのかもしれない。


恋人は、物も人も捨てるのが得意な人間だ。
物は常に売って手放しているし、友人関係も自分に不都合があれば切り捨てる。容赦がない。私が焦がれるような家族がいても、わずらしいという理由ひとつで距離をとる。私のことだって、何かある度に「じゃあ別れればいいじゃん」と言う。

捨て方を知っていれば身軽だし健全だ。

彼の両親は情が深く、優しく、多くのものに慈しみをもって接する。環境や政治に対して責任を持ち、思想をもって自分事でないものに心も労力も割く。

彼の祖父母は鬱病の果てに自死を選んだ人たちがいるという。当時は鬱病の認知度も高くはなかったし、本当に鬱病だったのかはわからない。ただ共依存的な人たちで、何かにつけて泣きつき、彼の両親は仕事と家事の傍ら、祖父母の面倒を献身的にしていた。

彼にとってその姿は脅迫的に映り、家族という献身的な存在をひどく嫌うようになったんじゃないか、と話を聞いていて感じた。「僕だったら相手にしない。心の病気は医者が治すべきだし、自分の人生を親のために犠牲になんか絶対にしちゃいけない」と口をすっぱくして彼は言う。

彼のお父さんは、自分の父親の介護につきっきりで1日の大半を、立つことができずアルツハイマーの父親のそばで過ごしていた。通いの介護士さんもいて定期的に検査のために病院へ連れて行くが、なるべく親の面倒をみてあげたい、親の希望を叶えたいと腰を痛めながらもお世話をしていた。

お父さんは寡黙で完全に言葉の通じない私にも笑いかけ、話しかけて肯く人で、きっと私が言語をしっかり覚えればいろんなことを話せそうな人だ。

5年以上が過ぎて、お父さんが面倒をみていたおじいさんは両足を切断することになった。お父さん自身も鬱病のような症状が出てきて、脳の検査などを受けるようになった。私でさえあまりにもショッキングな話で言葉が出なかった。彼はことさらに怒り狂っていた。

「自分で面倒をみるなんてバカバカしい。はじめからプロに任せていればおじいさんも両足を切断せずに済んだ。第二次世界大戦を生き抜いた最期が両足切断? 僕だったらいっそ死にたい。人間の尊厳を奪われるだなんて。家族愛だかなんだか知らないけど、本当にありえない」

私は言葉が出ず、気づかないうちにボロボロと涙がこぼれ落ちた。怒っていた彼はギョッとしたように口を噤んだ。彼の言葉は正論そのものだったけれど、彼は解決策のでない出来事にショックを受け、心配を処理できずに怒りに変換しているみたいだった。

どうして「家族」となると、正論は揺らぐのだろう。

私は彼の両親の気持ちもわからないし、アルツハイマーのおじいさんが何を考えているかも知らない。他人の幸福も不幸も勝手に決めつけることもしたくない。だから私が泣くのも筋違いで自分でも驚いてしまったけれど、それでも受け入れ難い出来事を前にいる彼の両親を責めるより、ただ手を握ってあげてほしいと感じた。


5.家族と私を切り離す

人生は、どうしようもない出来事が度々起こる。
何歳になっても、受け止め難い出来事に襲われるのだ。
耐えがたいとき、手を握ってくれる誰かが傍にいる。

それが「家族」なんじゃないか? と未だに私は信じたがっている。正しいと信じていたものが消え去ったとき。信じていたものが立ち消えて立ちすくんでしまったとき。

私は、差し伸べてくれる手がほしかった。
傷ついたとき、抱きしめて背中を撫でてくれる温もりがほしかった。
私ひとりでは決して得られない”強さ”が他者から受ける愛情だ。

幻想かもしれないけれど、そんな「家族」がほしくて苦しんできた。物理的な暴力よりもずっと私を蝕み続ける猛毒は、それだ。家族と私のつながりを信じていたくて、毒親の呪いが解けてもなお毒に蝕まれている。家族を辞めれば毒は消えるのだろうか。

情を挟んでしまえば、途端に正論は霞んでしまう。
両親は正論を奪い、私を縛りつけようとする。彼はどんなことでも家族に絆されることを嫌う。私と彼が家族になることは非常に困難だ。私が彼との冒険に失敗すれば、両親は歓喜するだろう。自分たちが正しかったと、私の不幸に安堵し、その時にようやく胸を撫で下ろして両腕を広げるのだろう。

だから、私は自分を奮い立たせなきゃいけない。
もう、親の手は要らなくなったことを親に知ってもらう必要がある。

夕暮れを見ても不安を覚えない。
夜、安心して眠れるようになる。
親からの連絡にビクビクしなくなる。

そういう当たり前の安心・安全を覚えられるには、私の心が両親を切り離さなければいけないはずだ。幸い、両親には息子家族がいる。結婚して子どもをつくった常識的な家族がいるのだ。そのことに安心すらする。性加害者である兄を守ることを選んだ時点で、私はもう両親と家族ではなくなっていたのかもしれない。

私が自分の幸せを自分の手で得ることは、彼との結婚を意味するわけじゃない。私の人生は私のもので、彼と別れても私の人生は続く。「結婚しなければ縁を切る」という母の言葉は、父と離婚しては生きていけないと結論づけた母らしい言葉だけれど、私は同じ轍を踏むつもりはないし同情もしていない。

母は選ぶものと、私の選ぶものは違う。
母は私を「一蓮托生」と呼ぶけれど、私たちは別の人生を生きている。

私は女であるよりも、ひとりの人間でありたい。
尊厳を持った人間として生きていけるのなら、「娘」も「妹」も喜んで返上しよう。もとより、とうの昔に失ったものなのだから。

私の人生は両親のものでもないし、ましてや彼のものもでない。
結婚しなければ縁を切られる程度なら切ってしまえばいい。
家族になるには厳しい彼の気質は、私の課題ではない。彼の課題だ。

「あなたの言うことは正しいかもしれない。でもお父さんもお母さんも、プロの看護師さんを呼んでいたし、定期的に検査もしていたでしょう?それでも回避できなかったことを思うと、本当に辛い出来事だよ。
あなたが叱らなくても自分自身を責めているよ。だから、せめてあなただけでも優しい言葉をかけてあげても罰は当たらないんじゃないかな」

彼は頷き、両親に謝罪の電話をかけていた。
クリスマスには帰省して一緒に過ごす予定だ。

彼に傷つけられることは少なくないけれど、私が自分自身に向き合えているのは隣にいるのが彼だからだ。いずれ私が彼を必要としなくなったときが確かにくるかも知れないし、逆も然りだけれど、今は互いを選ぶことにした。

私たちは皆、大人だ。
大人として相手を尊重する気持ちを持てれば、本来「家族」という形態に悩まされる必要はないはずだ。結婚してもしなくても暮らしてはいけるし、親がいようがいまいが、子がいようがいまいが、生きていける社会であるべきだ。


私は両親と戦うし、人格形成で一番大切な時間を支配されたのだから、これからの時間は決して支配権を譲ってはいけないのだ。私が自分を好きであれるためにも、他人と繋がっていける人間であり続けるためにも。

「子どもが自分の人生の全てだった」という母の考えが、子どもを支配し続けようとする執着になっていることも、そのためにお嫁さんと喧嘩が絶えず私が恋人を家族に近づけないことも、私の毒=課題ではなく母の毒=課題なのだ。

本人が自分の課題に気づいて向き合わない限り、私はもう母に絆されることはない。大人になっても、今ではもう暴力を震われなくなっても、それでも母を感じると手が震える。それでも、私は自分の未来のために母が毒を振り撒くのをやめるまで拒絶する。

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