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阪神淡路大震災後の三宮一貫楼②

木曜日は仕事(三宮一貫楼)ネタ
↑↑↑記事のつづきになります。

さて、いよいよ私が実家である三宮一貫楼の入社後の話になります。

私が入社したのは平成9年4月1日。
阪神淡路大震災の2年後になります。

この頃になると復興、復旧と言ったワードがあちらこちらから聞こえてきて、われわれに関わりのあるところとしては、大丸神戸店が3月に2年2か月の工事休業を経て再開いたします。(一足早くに神戸そごうも再開)

再開前までは当店もお世話になっていましたが、再開後は当社の体力不足もあり、テナントとしては入っておりませんでした。

大丸、そごうの再開は神戸市民としては嬉しい反面、
不在の間、神戸の百貨店需要を一手に担っていた旧神戸阪急(ハーバーランド)から消費者が減少するということを意味していました。

そこにテナントを構えていた当社としては少なからずのダメージを負うのでした。

その頃、本店もいまだにプレハブの仮設のまま。

残っている支店もジリジリと売り上げが減少していく、なんとも息苦しい時期がちょうどこの頃でした。

下がりゆく売上に歯止めをかけようと奔走したのが、当時の専務である母親でした。

本店は幸か不幸か自社物件となっていたので、営業の自由が利く本店で次々と施策を打っていくのでした。

まずは週一だった定休日をなくし、閉店時間を深夜2時にまで延長(開店時間AM10:30)。

閉店時間を延長することに対しては、当時身内からも異論が出ていました。

これは今もなのですが、神戸の夜は早いという定説があります。

震災2年後だった平成9年当時ではなおのこと。
ファミリーレストランや牛丼チェーン店くらいしか深夜営業をしている飲食店はありませんでした。

強い反対にあいながらも、母親は譲りません。
最初は懐疑的だった先代も母の熱意にほだされて深夜営業を手伝うことに。

当初メンバーは厨房に先代とコック1人、ホールには母1人の布陣で臨みました。

深夜営業初日のことは今でも覚えています。

手薄なメンバーなのでレギュラー営業の9時以降は麺類だけでの営業としていました。

その日の9時にお役御免の私も心配で様子見がてら少し残っていました。

ずっと9時に閉店していたお店です。

店前の人通りも少なく予想はしていたものの、やはりお客様はなかなか入ってきません。

一番反対していた当時の料理部長もその様子を眺めながら、
「ほら見たことか・・・」的な表情を浮かべています。

深夜営業開始から1時間弱、一人のお客様が入って来ました。

いつもより1トーン高い母の「いらっしゃいませ!」につづき厨房からも嬉々とした先代のお迎えの言葉。

入って来られた一番客様の注文に残っていた者たちの耳目が集まります。

「焼きめし、ちょうだい」

注目していたメンバー全員ズコーッという感じ(苦笑)

厨房の先代が「行こ行こっ。出来るねんから」との言葉。

まぁこのあたりが商売人ですね。紋切りではなく柔軟だと感じます。

そのあたりで私も失礼して、翌日に母に昨夜の売上は?と尋ねると、

「あの炒飯の人だけやったわ」

その答えを聞いて落胆。

「やらん方がいいんじゃない?」と言いかけましたが、
気迫が満ち満ちている母にはその言葉をどうしてもかけることが出来ませんでした。

しかし、その深夜営業に転機はすぐやって来ました。
その答えはまた次回にでも。

(つづく)


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