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昭和ファッション変遷史

母親が選んだ服を、何の抵抗もなく身に纏い、ほぼ気温の変化に対応するだけの目的だったことに何の違和感も感じなかった小学生時代。

その後私がファッションに目覚め、自分で選んだシャツやパンツを購入した日の思い出は今でもはっきりと記憶に残る。

中学に入学し、心身共に色気づいたことが一番の要因かもしれないが、当時の実家から自転車で数分の場所にジーンズショップという聞きなれない洋品店が開店したことが学校中の話題になった。

そしてそのジーンズショップで売られていたGパンという名のボトムスは、テレビや雑誌の中で時々目にはしたのだが、田舎の中学生風情が気軽に手に入れることなどまだまだ叶わぬ時代背景でもあった。当時のデニムはといえば最初から色落ちさせたものやダメージなどあるはずもなく、皆見事な濃紺、インディゴブルーのお手本のようなものばかりであった。

ストレートにベルボトム、スリム。ブーツカットと呼ばれるウェスタンブーツに合わせるために考案されたGパンの裾上げが、ウエスタンブーツなど履くわけでもないのに一番いちばんお気に入りだったりもした。

ビッグジョン エドウイン ボブソン

リーバイスやリーといったアメリカのブランドは国内生産がされる前の話で並行輸入に頼らざるを得ない当時の時代背景は、円安ドル高の為替レートに比例してとんでもない料金設定がなされていた覚えがある。

当時、そんなGパンと合わせるのに一世を風靡したトップスは、ワンポイントポロ

アーノルドパーマー ゴールデンベアー クロコダイル マンシング ラコステ(アイゾットラコなんてのもあった記憶がある)マクレガー etc…今もなおスタイルを変え認知されるブランドも多い。

話は少々横道にそれるがマクレガーの赤色の、ドリズラーと呼ばれるスイングトップは、ジェームス・ディーンが理由なき反抗で着ていたといえば記憶にある人も多かろう。

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鹿の子織りで提灯袖の半そでのワンポイントポロに、バティックプリントやマドラスチェックのバーミューダーショーツを合わせ、トップサイダーとまではいかないにしろキャンパスのデッキシューズか、サーフブランドのロゴ入りのビーサンで決める。親にGパンまでせがめなかった私が初めてしたコーディネートは、こうでねえとだったw

日曜休みには中学校時代の不良仲間と、初めて隣町に出現したジャスコという名のショッピングモールへ出向き、自分ではキメキメのつもりで意味もなくレコード店で、知りもしない洋楽のアルバムを物色する振りをして悦に入ったものだった。

そしてその後、色気づいた我らタメ年のショボい奴らが次に向かったのは、言わずと知れたアイビールックだった。石津謙介が創業したVANジャケッティングは、あこがれの的であり、ギンガムチェックのシアサッカーのボタンダウンに、(やはり赤が主流か?)コットンパンツ、足元はペニーローファーか、敢えてジャックパーセルのキャンバスのバスケットシューズで決めシティボーイを気取ったのがつい昨日の出来事のようである。(ローファーはコールハンかバス辺りが憧れだったが、リーガルかハルタが実際には手に入れられる程度だった)

VANのロゴ入りトレーナーは今でも時々街で見かけるし、紺ブレは三つボタン二つ掛けのVANのシルエットがやはり最高だと思う。しかしそうこう言いながら私が一番お気に入りだったVANのアイテムは、レターカーディガンだった。意中の女子のイニシャルが入ったレターカーディガンをさりげなく身に纏い、実際には野郎ばかりで見に行った当時の流行りの映画は、エクソシストだったか、スティングだったか?いや燃えよドラゴンだったかもしれない。

アイビー・トラッド・ニュートラ・コンチネンタル・コンポラ(コンテンポラリー)・ウエスタン・ヨーロピアン・DC メンズファッションも時代とともに様々な変遷を辿った。

インヤンやバルー、バルビッシュ、エンポリオアルマーニにヒューゴボス、大枚をはたいてかったそれらデザイナーズブランドの服は、今はほとんど手元にないし、あったとしても時代遅れの一品だろうが、リアルマッコイズのA2やフィルソンのダブルマッキーノクルーザーなどの、流行に左右されない名品は、30年立った今でも、現在のどんなアウターにも見劣りしないような気がする。

フィルソン

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恥ずかしい話だが今一人になって、これら数少ない手持ちのアイテムが箪笥の奥から再び日の目を見る日が訪れた。

喜ぶべきなのかかなしむべきなのかかは別問題として

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