【CAKE展】レモンのチーズケーキと霧と▽空時郎【旅人さんシリーズvol.2】
「女性と会う約束をしてしまいました」
「そうですか。楽しんできて下さい」
「でも、仕事が」
「何を言っているんですか。その方は、カードに想いを乗せたのでしょう?」
「・・・・・・」
「むつかしいことは、考えないで。君の今の仕事は女性との約束を守ることです。レディをガッカリさせることがないように。これはワタシとの約束です」
●●●
私の地元は、霧の町として有名だという。一日中霧が出ているわけではないが、霧が発生する日数と時間が、他の地域と比較すると桁違いに長いらしい。山に囲まれた盆地に町があり、そこに気候も加わってのことだという。
霧で真っ白になっている外を、キッチンの小窓から眺める。霧で陽の光が届きにくいので、基本的に肌寒い。多めに刻んだチョコレートとホットミルクで作ったお手製ココアを口に含んで、カウンターに置きっ放しのカードを見つめる。
祖母が家を訪れたときに、私に譲ってくれたカードだ。生成りでイラストは描かれておらず、シンプルなデザインである。
表には〈オーダーメイド承ります。お客様のところへ赴きます〉とだけ。裏には住所らしきものが書いてあるが、〈山の中湖の畔〉と書いてあるのを見て「どこ?」と首を傾げることしか出来ない。
祖母は、欲しいものがあるときにこのカードが便利だと言って渡してくれたが、残念ながら欲しいものが全く思い付かなかった。しかし、捨てるわけにはいかず、何だかんだずっと放置されているわけである。
今の生活で、事足りている。不自由は、ない。
また、一口、ココアを嚥下する。
欲しいものは、ない。
●●●
「戻りました」
「おかえりなさい。楽しい時間は過ごせましたか?」
「ええ。喫茶店でゆっくりするなんて、初めてでした」
「それは、良い経験が出来ましたね。発展は?」
「まだ、具体的に思い付かないと」
「そう。また会う約束が出来たのですね」
「・・・・・・貴方がからかうだなんて、珍しいですね」
「からかってなんていませんよ」
「いつもより、ニタニタと笑っています」
「ふふふ。報告は、しばらくいいですよ。約束は守るように。それだけ言っておきます」
●●●
自宅の下の階は、喫茶店になっている。祖母の店だが、体調を崩し気味になってから、よく手伝っていた私が、引き継ぐ形になった。祖母は、店を畳んでいいと言うが、私にとって思い出深い場所なので、畳むという選択肢は元から無かった。
しかし、お客さんが来てこその店。お茶を提供してこその、喫茶店だ。
祖母が営んでいたときは、祖母の友人たちがよく店内を賑わしていたものだが、今では閑古鳥が鳴いている。霧に隠れてお客さんが来ないのだ。
毎日、テーブルを拭き、カップを磨き、綺麗にしていようが意味が無い。
エプロンのポケットに入れていたカードを取り出して、見つめる。
欲しいものは、ない。
でも今は、たった一人でもお客さんが欲しい。
――ドアベルが鳴った。
「おはようございます。入ってよかったでしょうか?」
真っ白な霧の外から、濡れ羽色の制服に同色の制帽を被った、“お客さん”が現れた。
「い、いらっしゃいませ」
考えていたことが現実になった嬉しさと驚きで声が掠れてしまった。お客さんは店内を見渡して、私がいるカウンターへ歩いてきて席に着いた。霧の水分の所為か、制服が少し濡れている。
「ここは、何がおすすめですか?」
「れ、レモンのチーズケーキがおすすめです」
「では、それをひとつお願いします」
それが、彼との出会いだ。
彼は、配達員だと言った。しかも世界中に配達するのだと言う。他にもあと四人仲間がいるらしい。
「貴女に、会いに来たんですよ」
レモンのチーズケーキを咀嚼して、思い出したかのようにそう言われたので、磨いていたカップを危うく落としてしまうところだった。
「ど、ど、どこかで以前お会いしましたでしょうか?」
「いいえ。ですが、カードを持っているでしょう?」
カードと言われて思い付くのは、祖母が譲ってくれたカードだけだ。ポケットから取り出して見せると、彼は「そう、それ」と頷いた。
「そのカードに想いを乗せると、カードの持ち主のところへ僕たちが現れるってわけです」
「はあ。不思議な仕組みですね」
「魔法みたいでしょう」
にこりと彼は笑って、またレモンのチーズケーキを口に運び「美味い」と言った。
彼の話は、正に魔法のような話だったが、何故かそのまま受け入れていた。そう思えたのはきっと、ヘンテコな住所とシンプルな台詞のカード、そして目の前の不思議な雰囲気を持つ彼の所為に違いない。
じっと見つめていたのに気づいたのか、彼は制服の襟をクイと指先でつまんだ。
「この制服は、とあるアトリエに所属する配達員であることを表しているんですよ。貴女のおばあ様のところには、主人が直接赴いたので、僕らのことは知らないでしょう」
「ああ、もしかして」
祖母は以前、杖を作ってもらいたいと思っていたところに、旅人と名乗る華奢な人物が現れたと言っていた。その旅人は三ヶ月待って下さいと言って、素敵な杖を作ってくれたと、嬉しそうに話していた。今も、その杖を大事に使っている。
「でも、私、カードに想いなんて乗せていないわ」
「お客さんが欲しいというのは違いましたか?」
「それは、合っているんですけど、でも、このカードに書かれていることを読む限り、対象はオーダーメイドが出来るモノってことになります」
「確かにその通りです。でも、僕は貴女に会うことが出来ました」
「謎かけですか?」
「答えはいつも貴女のなかにあって、シンプルです」
答えはどれなのか、自分でも分からない。折角、彼は来てくれたが、私にはそれを答えることが出来ない。
「一緒に、欲しいものを考えてはくれませんか?」
今出せる答えは、それだけだった。
●●●
レモンのチーズケーキ。
作っては、自分で食べるだけの日々を終わらせてくれた配達員の彼には感謝しかない。
私の我儘に嫌な顔ひとつせず、あの日から毎日店に訪れてはいつものメニューを頼んで、一緒に私の“欲しいもの”を考えてくれる。
申し訳なさから、仕事は大丈夫かと訊くと、欲しいものが見つかるまで一緒に考えるのが今の仕事だ、と答えてくれた。彼が主人という旅人の話を聞いて、欲しいものに思いを馳せた。しかしこれといったものは出てこない。
欲しいものを一緒に毎日考えている内に、私は、よくあるありきたりで愛しい感情を抱くようになってしまった。
彼が美味しいと言ってくれたから、作るのがもっと楽しくなった。レモンのチーズケーキを載せる皿を、彼のイメージを意識して選ぶようになった。
欲しいものは、ない。
貴方と一緒にいられるなら、それで十分。
地元の山が、都市開発で崩されることになった。
木々は伐採され、どんどん山は小さくなった。その環境変化によるものか、私の町は前より霧が発生しにくくなった。
毎朝霧で真っ白だった小窓からは、青い空と庭先の緑の芝生がよく見える。
濃い霧が晴れたお陰で、お客さんがよく入るようになった。
そして配達員の彼は、忽然といなくなった。
いや、来なくなったと言った方が正しいかもしれない。何故かは知らない。店が賑わいだしたのと同じような理由で、彼の仕事も忙しくなったのだろうか。
都市開発は進んでいき、霧の町と言われたのはもう昔のことになってしまった。町の人口も増え、それに伴って店も繁盛した。祖母は二年前に他界し、ひとりでは手が回らなくなっていたところ、手を差し伸べてくれた人がいた。
忘れられない人がいると、伝えたが、それでもいいと言ってくれるその人と私は結婚した。夫は、仕事を辞め、私と共に店で動き回った。五年後には、もう一人、小さなお姫様とも動き回ることになる。
彼が来なくなって、四十年が経過していた。
毎朝、店の厨房でレモンのチーズケーキを焼く。いつからだったか、これをしないと一日のスタートを切ったような気がしなくて、つまり、私のルーティンになっていた。
夫も娘もまだ起きてくるには早い時間。ひとりっきりの時間だ。
余ったレモンを泳がせた紅茶を口に含んで、レモンのチーズケーキが焼き上がるのを待つ。無意識にエプロンのポケットに左手を突っ込むと、指先に何かが触れた。
取り出すとそれは生成りのカードだった。角は折れ曲がり、表面は汚れてしまっている。文字が書いてあるが、老眼が進んで読めない。眼鏡は確か、客席カウンター裏のメモの横だ。
厨房から出て、眼鏡を探す。しかし、思っていたところになかった。なくしてしまったのか。どこに置いてしまったのかしら。
コンコン。
店の扉をノックする音が聞こえた。開店するにはまだ時間があり、店の前にも“close”の看板を出している。早朝に珈琲を一杯飲みたい人でも来たのだろうか。ならば、サービスしてあげることは出来る。
そう色々と考えながら、鍵を解除して、扉を開ける。ドアベルがカランコロンと鳴り響いた。
「あら」
真っ白な霧の世界が広がっていた。こんなに濃い霧を最後に見たのはいつだったか。
「おはようございます」
懐かしい声。そう思った。
声が聞こえた方へ首を動かすと、濡れ羽色の制服と同色の制帽を被った人物が立っていた。
「久しぶりですね」
彼はそう言った。
「欲しいものは見つかりましたか?」
……いいえ。
欲しいものは、ないの。
「一緒に考えませんか? 貴女の作るレモンのチーズケーキを食べながら」
ええ。そうね。そうしましょう。
私は、厨房へ小走りで駆け込んだ。レモンのチーズケーキは焼き上がっている。オーブンから取り出して、一人分にカットし、あの配達員の彼をイメージして選んだ皿に載せて、厨房を出る。
彼はいなかった。
一旦、皿を置いて、彼を探す。店の中にはいない。
店の扉を開ける。霧は晴れ、視界は開けていた。それなのに彼は見つからない。
私は彼を呼ぼうとした。出来なかった。私は彼の名前を知らない。
とあるアトリエに所属する、濡れ羽色の制服に同色の制帽を被った不思議な配達員。
それしか、知らない。
さっき、あの配達員の彼を見たのは、夢だったのかしら。私ったら、寝惚けていたのかしら。
「ぅぅ・・・・・・ッ!」
胸にぽっかりと穴が空いたようだ。忽然といなくなったあの日と同じ気持ちだ。
「どうされましたか?」
いつの間にか、目の前に別の人物が立っていた。
華奢な肩に、パンパンに膨れたバックパックを背負って、偏光ゴーグルの中から、私の様子を窺っている。
「いいえ。大丈夫よ。ご心配ありがとう」
「そうですか。こちらのお店、オープンは何時からで?」
「もう少し後だけど、丁度ケーキが焼けているから。召し上がってくださいな」
「いえ、それは、彼に取っておいて下さい」
はっと、息が詰まった。「彼」って誰のことなの。「彼はね、霧が出ているときしか姿を見せられないんですよ。でも、今夜は霧が出ます。彼のために、ケーキは取っておいて下さい。夜の九時に。彼はまた来ますから」
この人はいったい何を。
「慌てた顔でここに来ますよ。貴女の約束とワタシの約束を彼はまだ覚えていますから」
突然現れたその人は、旅人と言っていたわ。貴方が話してくれていたご主人様かしら。私ね、あの旅人さんのことを信じて、作りたてのレモンのチーズケーキを焼いて待つわ。
貴方が美味しいと言ってくれてから、毎日欠かさず焼いているのよ。あのときと変わらない、だけどもっと美味しくなっているのは保証する。
夜九時、霧の時間に、貴方を待ってる。
欲しいものを、また一緒に考えてくれる?
――ドアベルが鳴り響いた。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?