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【短編】 サーカス

「はい、飛んで。」
 その掛け声と共に、綱で繋がれただけの頼りなく見窄らしい、横長の棒を両手にしっかりと握って、梨花は震える両足を、地上7メートルの高さに設えられた粗末な板の外に投げ出した。落下する体が弧を描いて再び上空へと投げ出されるのが解る。全身が緊張で強張り、耳の奥が膨張する。頭のどこかが痺れて恐怖に目が眩む。地上にいるインストラクターは容赦なく冷淡な声で次の指示を出す。
「はい、両足を上げて。」
 両腕に最大の力を込める。限界ギリギリでようやく両足が上がり、それと同時に素早く両手を棒の中央に寄せ、両端に両足をかける。そして、両手を離し海老反りになって揺られる。
「はい、前後に体を揺らして降りる。」
 その指示の通り前後に体を揺らして足を棒から外すと、体は1回転して、地上1.5メートル程度の高さに設置された網の上でバウンスする。
 網から1回転して外側に降りて命綱を外してもらい、再び列に並ぶ。肩を上下に激しく揺らして荒い呼吸を整えながら、今体験した恐怖を反芻する。震えと目眩が収まらないうちにまた、自分の番が巡り、全く同じ体験を繰り返す。

 梨花は、20年来の親友である、真由子に誘われて空中ブランコの体験レッスンに参加していた。面白そうと軽い気持ちだったのだが思いがけず、命がけの緊張感を味合う羽目になった。ほんの少しも楽しいとは感じられず、体力が短時間で消耗して疲労が蓄積されていく。扁桃体が暴走して体が竦み、襲ってくる恐怖と目眩をどうしても払拭できない。参加したことを後悔したが、それでも続けるうちに、もしこれに慣れ、恐怖心を克服できたら、日常の如何なる不安にも臆することなく堂々としていられるのではないかという気になった。
 
 梨花は昨日、1年間程密かに想いを寄せていた弘樹と初めて2人で食事に出かけた。7,8人で食事にいく機会は何度かあったが、お互いを良く知れるような会話はできなかった。弘樹が主催したイベントで上映された映画がとても好きなので食事でもしながら、色々教えて欲しいと梨花から誘った。

 友人が経営するカウンターだけのカジュアルな割烹を予約して、横に並んで座った。初めは少し緊張したが、直ぐに話は盛り上がり、気持ちはほぐれた。弘樹の男性にしては少し高い声も、穏やかさと神経質さが混ざる眼差しも、白くて形のいい大きな手も、触れていなくても伝わる体温も、全てが愛おしく、梨花は自分にはやはりこの人だと確信した。1年勇気がなくて聞けなかった質問も然りげ無く口にできた。
 「ご家族はいらっしゃるんですか?」
 「いますよ。13歳の娘が1人、シングルファーザー歴、5年です。」
 それは全く予想していなかった答えだった。弘樹は嬉しそうに、娘との2人旅行や、家事に奮闘している話を続けた。梨花は、悟られないように笑顔と相槌を欠かさなかったが、内側では激しく動揺していた。父親にとって1人娘は最強だ。しかもシングルファーザーにとっての思春期の娘は世界の中心かもしれない。他の女性が入る余地などあるのだろうか。先ほどの確信はみるみる萎んでいく。それでも、惹かれる気持ちは変わらなかった。

 空中ブランコ体験レッスンの最終目標はキャッチだ。つまり、反対側のブランコにぶら下がるインストラクターに向かって海老反って、彼の両腕に捕まり、それまでぶら下がっていたブランコから完全に離れて乗り移る。海老反りまでが上手にできるようになったとインストラクターから認められれば、キャッチにチャレンジできる。1度で合格する人もいるらしいが、梨花は5回飛んでもダメだった。疲労は溜まり続け、恐怖心の強さも変わらない。本能は、もうやめろと訴えている。投げ出したいのが本音だが、梨花は願を懸けることにした。もし今日、キャッチが成功したら弘樹に告白する。自分が入る余地があるかは、もう少し進んでから見極める。もし、体力の限界が先に来たら、長い片思いを終わらせる。どちらにも踏み切れない梨花には、この極限状態はまたとない決断のチャンスだ。

 細く、果てし無く長い、ジャックの豆の木のツルのような梯子を上って、板の上に立つ。背後のインストラクターが手繰り寄せたブランコの棒をしっかりと握る。
 「はい、飛んで。」
 6度目の掛け声に合わせて、梨花は覚悟を決めて飛び降りた。



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