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砂の上から岩の上へ

簡単に自分の証を書いてみたい。
(今後はカリスマ運動やペンテコステ派について自分の考えやリサーチも残していきたいと思う)

カリスマ運動に惹かれて

世の中の裏側を知り、一握りの人間がこの世を裏で支配していることを知り、人生に希望が持てなくなった。そんなとき聖書に出会った。リサーチを続ける中で癒しの動画を見たことで「まるで使徒行伝の世界だ」と目が開かれ、やはり聖書は正しいのだと確信した。

悔い改め、洗礼も受けたが福音の理解はかなり浅かったと思う。私の意識は奇跡やしるしに向いていたからである。

躓きとなった異言

私の新生は難産となった。私が集っていた家庭集会はThe Last Reformationの影響を大きく受けており、洗礼後には聖霊を受けた証として異言を語ると教えていた。

しかし私の場合、何も起きなかった。
バスタブに浸かったまま8人ぐらいが私が聖霊を受けるために祈っていた。
おそらく10分くらいは続いたと思う。

結局、異言は出てこなかった。
それ以降「なぜ?」の自問自答の繰り返し。他の信徒には起きているのになぜ自分は?信仰が足りない?新生してない?なぜ?なぜ?これって聖霊を受けてないってこと?そればかりが気になってしまった。

色々と聞いても納得のいかない答え。自分から喋るものだと教える兄弟もいて、それっぽく語ってみたが「そう!その勢い!それだ!」みたいな感じで正直、胡散臭いと思った。

もし聖霊を受けていないなら奇跡や癒しを行うことができないのでは?
そんなことばかり考えていた。しかし、時間はかかったが聖書を学ぶにつれカリスマ運動は聖書に合致しない教えが多すぎると気づき始めた。

まさかの砂上の楼閣

奇跡、不思議を求めてこの道に入った私はイエス様が警告された「砂の上に家を建てるもの」だった。地面を深く掘り、しっかりとした土台を据えること無しにすぐに人の目に見える、成果として見えるものを建てようとしていた。土台というのは埋まっているので人には見えない、しかし必要不可欠なものである。

罪の理解もすっぽり抜け落ち、福音の理解も浅く、イエス様の贖い、復活よりもしるしばかりを求めていた。

私の中身は空っぽだった。カリスマ運動の与えるパンはエンタメ性に富んでいる。それは肉的な人を引き寄せる。また、肉的な人を満足させようとすればするほどその手法もますます肉的なものになる。

それは口には美味しいかもしれない、しかし腹は満たされない。

奇跡や癒しが全く無いとは言わない。しかし、この世では試練があり、苦しみがあり、忍耐を通してキリスト者は清められていく。
神様の声を聞くのに特別な訓練もカンファレンスや神学校に行く必要もない。神様はすでに聖書を通して私たちに語っている。聖書を軽視するものは神を軽視しているのと同じである。

聖書を学ぶというのは正直、エンタメ性などは無いし、雑誌を読むような気軽なものではない。しかし、それは私たちキリスト者を養う。

御言葉をしっかりと学び、従い、行うこと、これが岩であり堅固な礎である。

マタイ7章は偽教師を見分け、奇跡や預言を行っても神の言葉を蔑ろにして聞くだけで行わないものに対する厳しい裁きが語られている。


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