健全な聖書的教えの不足


おそらく自分は救われていなかった。

約7年前に洗礼を受け、クリスチャンとして生きる決心をした。だが、今思えば罪について表面的にしか理解していなかった。罪を理解し、悪い知らせをまず知らなければ、良い知らせである福音は理解できるものではない。

クリスチャンがストリートに出ていき、癒しを行う動画に大きな影響を受けた私はクリスチャンになれば自分も神様の力によってダイナミックな人生を送れるのだと思った。

異言を語り、癒しを行い、不思議や奇跡、聖霊の賜物によって人々をキリストに導けると思っていた。

大きな勘違い

ここに大きな勘違いがあった。人をキリストに導くためには奇跡が必要だと思っていたことである。クリスチャンになれば奇跡を行う力が与えられて、自分の手を通して病気の人がどんどん癒されて、神を信じる人が増えていく、そんな期待をしていた。

しかし、罪について、裁きについて、地獄について、悔い改めについて、キリストにある希望についてなど、重要な事柄がすっぽり抜け落ちていた。

霊的なことを追い求めているようで、体験といった肉的な事柄ばかり追い求めていた。

砂の上か岩の上か

これはまさに砂の上に建てる行為である。
なんの礎も無いのに何人癒したとか、こんなすごい奇跡を見たとか起こしたとか見かけ上の華やかな結果ばかりを求めていたのである。

しかし、神に感謝したい。
いわゆるカリスマ系から入った私であるが、聖書を学ぶにつれてその教えがまったくの空っぽであることに気づいた。聖書的で固い食物に対しての飢え渇きを覚え始めたのである。

特に異言については私にとって大きなつまづきになった。新使徒運動を支持するようなクリスチャンが語る異言は聖書的ではないと確信している。

異言については絶えない論争があるが、クリスチャンは誰でも異言を語るとか、聖霊を持つ証拠だとか、聖霊を受けたらのなら異言を語れるからあとは一歩踏み出して語るだけ、とかいい加減な教えに溢れている。

周囲にいるクリスチャンが異言を語っているのに自分が語ることがなければ不安になるのは当然である。

神様の声を聞くというのも同じで、あの人は神様の声を聞いているのになぜ自分は聞けない?と不安になる。単なる自分の想像や考えなのにも関わらずそれをいつの間にか神様からにしてしまう。

初めは身なりを整えた説教者のメッセージには奇跡も癒しもなく、古臭い時代遅れのキリスト教だと軽く見ていた。

そうやって軽くあしらっていた説教者の話を今よく聞くようになっている。

礼拝中に神の栄光が現れて金粉が降ってくるなどという話もあるが、そんなものには興味が全く無くなった。金粉が降るから何なんだと。キリスト教会がただのサーカスとなっていることに気づいた。

肉的な人は肉的は方法でしか満足させられず、そんな人たちで溢れた教会はいずれ滅びることになる。

神様の計画を理解し、今までよくわからなかった預言の意味を理解できたときの喜びのほうがはるかに大きい。神様をより深く知ることになるからである。

ねじ曲がった教えの多くはアメリカから世界に向けて、特に今はアフリカに輸出されている。真理は揺るがないものだが、聖書の真理をねじ曲げようとする動きがかなりのスピードで広がっている。その代表的なものがLGBTQである。

聖書的な教えが全く不足している。重要なことが語られない。世と調子を合わせている教会が多い。

騙されてはいけない。
騙す悪魔がいて、悪魔に騙されている人間が人を騙す。騙されたと気づいていない人は結果的に善意によって人を騙す。そのサイクルによって人は知らずに騙し、騙されていく。

唯一この世で揺るがない岩がイエスキリストであり、まことのぶどうの木に繋がらなければならない。

「神をおそれる」とは「神を正しく理解すること」

そのために私たちに必要なのは神をおそれることである。神をおそれるということはビクビクしてることではなく、神がどんな方なのかを正しく理解することである。

生活に欠かせない火や刃物も正しい使い方を理解しなければ危険である。神様で火遊びをするようなクリスチャンは大きな害をこうむることになる。

カリスマ系の教えや運動は神様への恐れがない。神様への恐れがないところでは冒涜で溢れる。しかし聖書を日々学び、おそれが無いものにはそれを見分けることができない。

神をおそれること、それが知恵のはじめである。
私たちに必要なのはしるしや奇跡ではなく、健全な教えである。

'御言を宣べ伝えなさい。時が良くても悪くても、それを励み、あくまでも寛容な心でよく教えて、責め、戒め、勧めなさい。 人々が健全な教に耐えられなくなり、耳ざわりのよい話をしてもらおうとして、自分勝手な好みにまかせて教師たちを寄せ集め、 そして、真理からは耳をそむけて、作り話の方にそれていく時が来るであろう。 しかし、あなたは、何事にも慎み、苦難を忍び、伝道者のわざをなし、自分の務を全うしなさい。 '

テモテヘの第二の手紙 4:2-5

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