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近江の歴史を偽りで翻弄した『江源武鑑』って、ほんとに疑っていいの?

今回も、一般の方には、あまり面白い内容ではありませんが、大ごとになりました(笑)

前回の 11.初登場の光秀・・・の中で
近江の歴史を偽りで翻弄したと有名な『江源武鑑』にも、多賀の武士(楢崎氏、種村氏、久徳氏)が上洛に同行したとあります。」と書きました。

歴史を知っている人には「『江源武鑑(こうげんぶかん)』には気をつけろ!」と言われます。こんな中から引用しようものなら「ダメな奴」とレッテルを貼られる空気を感じますので、かなり勇気がいります。

私自身は、どんな評価を受けてもいいのですが、出来れば 作為のある情報を流したり、誰かを傷つけないようにしなくてはと思っています。
が、「近江の歴史を偽りで翻弄した」と言われている作者の子孫かもしれない方と交流があるので、チクッと心が痛んでいました。

そもそも、明智光秀近江出身説は『淡海温故録』そして、その元になった『江侍聞伝録』も、ちょっと怪しい所もあると言われている文書なので、今まで取り上げられなかったという経緯があるように思います。

でもね、調べていくと、一次史料しか認めないなんていう専門家は逆におかしいと思うようになりました。偽書と言われていたり、創作された物語の中にも、背景を読み取り、比較して、真実に近い形を詳らかにしようとされているものを読むと、さすがプロなのだと思うようになりました。(なので、私にはムリですが)

ただし、文化財課といった公的機関にお勤めの方は、なかなか冒険は出来ないので、表現できる範囲が限られていて、怪しい所がある文書は「ズバッ」と含めないで 検証せざるを得ないのは理解できます。そして「偽書だ」と切り捨てたくなる気持ちもわかります。内容が検証しきれないし、元のソースが『江源武鑑』だとわかると、私でさえ非常にガクッとしました。

が、怪しいとは言われている文書だけれど、すべてがウソとも言えないというのも真実です。

偽書とされる『江源武鑑』の著者 源内幻想 「沢田氏」の軌跡 佐々木信夫著

すると、こんな本がkindle版で出版されました、

著者は、佐々木信夫氏。昭和9年生まれ。新潮社で長年、山本周五郎から安西水丸等、名だたる小説家を担当してこられた編集者が、もしかしたら自分は、『江源武鑑』の著者 沢田源内の子孫かもしれないと 調べはじめた事をきっかけに出版されるに至られたそうです。編集者らしいですね(笑)

沢田源内というのは、近江守護 佐々木六角の本当の嫡流は自分だと嘘をつく為に、偽書や偽りの家系図を作ったと、近江の歴史にかかわる人からは極悪人呼ばわりされている人です。
江源武鑑』も 沢田源内 も Wikipediaでも ひどい書きようです。
が、どうも、それは真実ではなさそうなんです。

しかし・・・
他人事で、なくなってしまった(泣笑)

私は、三銀蔵の片付けから多賀坊人を調べる過程で、明智光秀佐目出身説を見つけたのですが、これは母方の先祖になります。

父方は、澤田。先にも書きましたが、近江の歴史を調べると「沢田源内」という名前を目にします。すこぶる評判が悪く、同じ名字として、ガクッとします。でも、漢字が「沢田と澤田」で違うし、沢田なんて名字は、どこにでもある普通の名字だし、そもそも我が家は武士だったという言い伝えもなく、関係ないと思っていました。出来れば、誰か名誉回復してもらえるミラクルな発見をしてくれたら、うれしいなぁという位の感じでした。

ところが、本の表紙がUPされて見てみると・・・
ウッ! 『澤田氏先祖書』 沢田 ではなく 澤田。あらっ。。。
新聞記者さんに教えてもらいました。私の戸籍は「澤田」で、家族みんな「澤田」として生きてきて、新聞に「沢田」書かれるのは、他人のようで先祖に申し訳ないと訴えてたのでした(笑)すると、難しい漢字を簡単に表記するという政策があったそうです。知らんやん(笑)
クリックするとアマゾンに飛びます。勝手に宣伝!(笑)

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読んでみると、更に腰を抜かしそうになりました。
1. 澤田氏はいた。しかも、城は多賀にあったかもしれない。
と。多賀の澤田は、ほぼ佐目にしかいません。光秀がいた佐目です。

2. 沢田源内は『江源武鑑』の作者ではない。
『江源武鑑』は1621年に出されているのだけど、沢田源内は1619年生まれ。1688年没後 20年後に偽書とされたらしい。年代は、やはり諸説ありなんですけど。

3. 多賀大社が絡んでいる可能性があるかも。
何人かの関係しそうな沢田の中に、今堅田城主に仕えていた犬上出身の沢田氏の子孫が青蓮院尊純法親王の禿童として少年の頃仕えていたという資料があるそうです。貧乏な家なのに、ありえへん、どして?という事らしいが、京都青蓮院内尊勝院の門跡は、多賀大社不動院門主も兼ねているので、沢田のルーツが多賀であれば、全くつながりがないわけではない。今堅田城って、光秀が落城させたのよね。。。

4. 『江源武艦』には、将軍義昭が多賀大社に寄進した自筆の「足利家系図」の写しがあった
私の手元にある多賀大社の資料一覧では、見つからず。課題だな。

5. 歴史から消された氏族が、いくつかある。
六角氏の本能寺の変以降の子孫の行方がよくわからないなぁと思っていたら、そういう事だったのかという内容でした。沢田以外にもあるのね。

詳しくは、ぜひ この本を 読んで頂ければと思います。偽書だと切り捨てるのは簡単ですが、先祖探しをされている方の執念はすごく、しかも、長年編集者をされてきた方なので、説得力もあります。

ちょうど、今、調べていた時代とピッタリで「どうしてかなぁ」と、漠然と思っていた定説の欠落していた部分が、埋まる気がしました。ネタバレになるので、ここでの説明はさけますが(むずかしいので簡単に説明できないし)、偽書と言われるに至った成り行きも、まだなんとなくですが、理解できました。ただの、親族の争いです。

澤田氏はいた。しかも、城は多賀にあったかもしれない。でも「沢田源内」とは、無関係?

著者は、『江源武鑑』は、通説では そんな人はいないと言われている六角定頼の兄の子孫義秀の家臣たちが、1582年、その義秀、信長、光秀が亡くなり、秀吉の時代になってしまったので、有形無形の佐々木氏関連の多様な「情報」を集め、フィクションも入れながらまとめた百科事典的な書物ではないかと想像しておられます。その元になったのが『江州佐々木南北諸士帳』で、その中に、5人の沢田氏がいると。

『江州佐々木南北諸士帳』は、見た事がありました。というか、今年、11月に「近江中世城跡 琵琶湖一周のろし駅伝」に、多賀から五か所が参加する事になり、1987.3 滋賀県教育委員会 『滋賀県中世城郭分布調査5』(旧愛知・犬上郡の城)を、見ていて、そこに載ってました! 
なんという偶然。お導き(笑)

そこには、『江源武鑑』の影響を受けている部分もあり注意するようにとあるものの、全体的には荒唐無稽なものではなく、各地の郡誌とも一致するとあります。筆者は、『江州佐々木南北諸士帳』と『江源武鑑』はセットだと。

著者は、5人の沢田氏を調べられました。
1. 柏原の能勢山城主 沢田兵部少輔
著者は近江に能勢山はないと書いておられますが、野瀬山城はちゃんと柏原にあります。漢字が違う事はよくあります。近所に沢田性もいます。

2. 問題の犬上郡にある龍原山城主 沢田武蔵守秀忠
実は、この場所を特定されたのは、佐目の山城を見つけられた方と同じ人物だと思われます。普通の人間には見えない城跡を見つける達人ですが、なかなか新発見というのを、公的に認めて頂くのは大変そうで、佐目もいまだ山城A,B,C と言っています。早く、佐目城と言いたい(笑)

で、『江州佐々木南北諸士帳』も『江源武鑑』も怪しいと言われる方が多く、沢田氏の城跡も確定した! とは公には認定されていない中ですが、その場所は 敏満寺のあった青龍山の佐目よりにあり「竜円山城」というそうです。「龍原山」確かに、ゴロは似ています。紫雲苑のあたり。城主 沢田武蔵守秀忠。すぐ近くには、籠城山城 又の名を 道場山城と言い、佐目道場の支城だったかもと言われています。そして、多賀町の中で沢田性が住んでいるのは佐目だけ・・・。うーん。

まさか、こんな所でルーツにつながるかもしれないネタが出てくるなんて。
『江源武鑑』には、永禄5年(1562年)9月24日の項に 沢田武蔵守忠高入道覚雲斎卒とあるそうで、もし、この場所ならば、敏満寺が浅井長政に焼討ちにあった年月と合致し、その時に亡くなったのかなとか。(これも諸説ありですが)

六角氏は沢田武蔵守忠高に三代にわたり世話になったという事で、沢田庄に忠高寺を建て弔ったとあるそうですが、沢田庄も忠高寺も近辺では思いつきませんが、1572年に再び敏満寺は信長に焼かれ、時期は特定出来ませんが、「竜円山城(龍原山城)」から見下ろせる場所にある小屋寺という大きな寺の焼討ちを信長が佐目の陣屋山の頂上から見ていたという「信長陣前桜」の伝承が最近見つかり、敏満寺だけでなく他の寺院も多く焼かれているので、その時に焼かれてしまった可能性は大です。なかったとまでは言い切れません。

小屋寺という大きな寺があった事も、地名でしか残っておらず、今は田んぼになっていますが、竜円山城のすぐ下に、昔 我が家の田んぼもあり、離れていますが、佐目や南後谷の人が所有していますので、権利を主張する理由もあったのかもしれませんが、妄想の域を出ません。

六角氏の観音寺城にも沢田丸があったり、『江源武鑑』には結構、沢田氏が出てきますが、多賀町誌や多賀大社叢書では目にしません。

後は、著書でご覧くださいね。

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そこで、気になってきたのが、光秀出自について書かれている『江侍聞伝録』で、1672年に沙沙貴神社神官家だった木村重要によって書かれています。『江源武鑑』は1621年(仮)に出来ているという事は、1619年生まれの沢田源内は『江源武鑑』著者ではない。だけど、『江侍聞伝録』は『江源武鑑』に汚染されている可能性もあるのかと。

上の赤字の添削は、木村氏自身のものですが、この文書の中には「沢田源内」の特徴とよく似た、添削があると聞いていました。ん?「沢田源内」に見てもらった?と、心配になってきました。

いやいや、その前に沢田武蔵守秀忠って、めちゃくちゃ光秀と時代がかぶっているではないですか!  もし、光秀が佐目で育ってたら、一番近くにいた武将だし、生まれた頃も同じ頃だし、佐目に今も澤田はいるし。 

とにかく、『江源武鑑』なるものがどんな内容なのかも知らないのに、怖がってはいけないと気が付き、読むことにしました。
世の中には、親切な方がおられて現代語訳して頂いています。

『江源武鑑』おもしれぇ! 

通説を知ってから読まないと、面白さがわからなかったのですが、よしんばうそっぱちだったとしても、信長に近江が乗っ取られ、1582年本能寺の変がおき、光秀の行動に右往左往し、今度は秀吉に振り回され、関ケ原の合戦がおき、徳川の時代になった元近江守護 佐々木六角氏のバック・トゥ・ザ・フューチャー的な定説とは違うもう一つの物語が、たぶん家臣の手で一生懸命残し伝えようとした事がわかり、感動します。

そして、あまりにもよく出来ています。こうだったら、救われるなぁという内容でした。この文書も、『信長公記』など当時手に入った文書からネタを拾っているようで、ネタ元が適当ならば、適当な内容になるという部分も多々あるようで偽書とされていますが、通説を追っている中で、なんか引っ掛かるなぁと思っていた部分が、なる程、そうだったら納得するなぁというような内容なんです。

こんな内容を、すべて嘘で塗り固めて書ききれるものではないと思えます。通説とこの物語(と言ってはいけないのかもしれないけれど)は、案外、相反するものではなくて、同時進行していたのかもしれません。

とりあえず、『江源武鑑』を読めば、そこに出てくる沢田氏が佐々木家の流れではあるけれど、嫡流ではない事はあきらかで、嫡流であると主張している沢田源内=佐々木氏郷と言われている人が、嫡流と主張する為に『江源武鑑』を書いたなんて事はありえへんという事がわかりました。

とは言いながら、明智光秀に昔の旧き好みで山崎の合戦に参加した犬上衆の多賀氏や久徳氏、目加田氏、後藤氏などと、よく一緒に沢田氏が『江源武鑑』には出てくるのに、今まで私が見た近江関係の資料では全く目にして来ませんでした。

考えられる理由は、2つ。

・沢田源内ではないけれど沢田の血を引く者が、やっぱり『江源武鑑』の作者で、チョコチュコって先祖の名前を挟み込んだ(笑)
・沢田というやつはウソツキらしぜと(私のようによく確かめもせず) 噂になり、何らかの力が働いて、その当時から文書に加えるのを控えたか、後世で活字にする時に除されていったか、という所でしょうか。

「沢田というやつはウソツキらしいぜ」と書いた人が、ご丁寧に「本人の沢田もだけど、母方の和田も従弟の畑も一緒に悪だくみに加わってる。賢い人はだまされないが、アホはみんなひっかかっている。気をつけろ」と付け加えているのです。今でいう〇〇砲みたいな書きっぷりです。ライバルの芸能人を蹴落とす為に提供されたネタを、調べもせず書いたゴシップ記事みたいです。
そのあたりは、こちらでキチッと検証されています。

とても、わかりやすく、ほんで、どやねん! という事を 赤字で書いて頂いています。これからじっくり拝読します。

とは、言いつつ『江源武鑑』の内容も、突っ込まれても仕方がない部分も多々あるので、信用しきっていいのかはわかりません。
同じ作者がHPで、どこが間違っているかを書いておられます。
これは、『江源武鑑』を読みつつでないと意味ないですが。

六角氏が権力争い中だったら、理解できる。

江源武鑑』を読んで、目からウロコ・・・だったのが、六角氏は兄弟の子孫がどちらが跡継ぎかというので、見解が違ったまま、没落してしまった為、見方の違う歴史があった( 作らた)という事でした。

私は、とりあえず無用な戦いをさける為に「逃げる」というのは嫌いではありませんが、勝ち組の人の目線から伝えられた近江の歴史ではなく、ちゃんと 近江守護だった佐々木家(ゆかりの人) の思いが、この偽書と言われてきた資料から感じる事が出来ました。

あまりにスムーズに信長に近江が移譲されたのも不思議だし、その後、安土であんな文化がつくられてきたという事は、本当に もう一人「尾形」(六角氏の跡継ぎはそう呼ばれていました)がいて、裏でうまく調整していたと考えると腑に落ちます。

うまく説明できませんが、近江人の気質は、もう一人の「尾形」の行動の方がしっくり理解できます。という程、まだ読み込めてはいないのですが。

さて、犬上にいた澤田氏はどうなったのか、明智光秀との関係は、どうなったのか とても気になりますが『江源武鑑』からはつかめませんでした。
が、澤田氏は、チョクチョク、秘密の文書をもって尾形の使いに他国に行っています。時には、山伏も出てきます。

では、これにて 再び 「明智光秀近江出身説」に戻ります。
見方が、今までと 変わってくる予感。

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