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はじめて僕が人の役に立った話を書いておこう

「はじめて僕が人の役に立った話を書いておこう」

こんなタイトルをつけてしまったが、もちろんあくまで私の記憶にある範囲内でのことだ。
人は時に生きる意味や目的を見失ってしまう。そもそもそんなものはもしかしたらないのかもしれないが、まるでそれがあるかのように振る舞わなければ毎日を生き抜くことさえ息苦しくなってしまう。そんなとき、「自分が人の役に立っているかどうか」がひとつの物差しになりうると私は考えている。

記憶を遡る。

おそらく私の一番古い記憶は幼稚園に通い始める前に住んでいた自宅周辺で姉や当時仲良くしていた友達と遊んでいた頃のことだと思う。それは年齢にしておそらく3歳くらいだったのではなかろうか。あの頃の私にとっては町があまりにも巨大な存在で、自宅前のやや入り組んだ荒れ地で友達と遊びながら「これ以上家から離れると帰り道がわからなくなってしまう」と不安に駆られつつも楽しんでいたような気がする。

そうなのだ。私には常に帰る場所があった。それは自宅であり、両親のもとだ。私が親の期待をどれほど受けて生まれ育ったのかはわからない。しかし、いっぱしの「子」という存在である以上の愛情を注いでもらっていたようにも感じる。当時まだ一介の中堅社員だった多忙な父親も、家庭のことをすべて面倒みてくれていた母親からも。かくして、両親からの期待はさておき、当たり前の帰巣本能を当時から私は自分の中に感じていた。

あれから12年ほど経った頃だろうか、幼い頃とは住まいも何もかもが変わってしまい、私自身家庭のありがたみよりも自由を満喫するような生活にシフトしていた時期があった。当時転勤族の父親が単身赴任をしていた。姉も大学受験が近づき、また私と同じく思春期というか成長過程にあり、その二人の世話を母親ひとりで見るという負担を私達は母親に強いていた。また巡り合わせの悪いことにその頃姉と私はめっぽう仲が悪かった。丸一年間口を利かないどころか、同じ場所にもめったに居合わせないほどだった。そして、本当につまらないことが引き金になり、ある夜私は家を飛び出した。正直このままどこかへ行ってしまうもよし、いくらか時間が経ち腹が減ったらしれっと帰宅してもよし、とそんな心境だった。とにかくその瞬間私は家にいたくなかったのだ。果たして特に行く場所もなくおそらく1,2時間の彷徨ののち私は自宅に戻った。しかし、その自宅には母や姉の姿が見当たらない。少しだけ「もしかして俺のせい?」という感情が心をすり抜けた。でもそれは深いものではなく、人気のない家の中で何をするでもなく佇んでいた。

30分ほどした頃だろうか、母と姉が息を切らして帰ってきた。
「どこ行っとんたんね!」
母は私の顔を見るなり心底ほっとした表情でそう言った。仲たがい中の姉はうつむいたままだったが、私のことを探し回ってくれていたことは火を見るより明らかだった。確かにあの状況で家を飛び出したら何をするかわからない、そんな年齢だったと思う。そして実際私も何をするかしないかすらわからない、そんな心境だったことは確かだ。

そんな日々も乗り越え、最初に我が家を出たのは姉だった。彼女は東京の大学に進学した。私は快く送り出せただろうか。その頃の自分の心境はよく覚えていない。もう既に自分のことで頭がいっぱいだったからだ。私自身、高校一年生から大学受験を目指して猛烈に勉強を始めていた。姉の応援云々よりも自分のほうが大事、という訳ではなかろうが、あまりにやることが多すぎて、また一方で、そうしているのが楽しかったのだろうと思う。もう既に姉とは和解していたが、姉との間で感傷的な別れはなかったように思う。どうやって送り出したのだろう。

だがその3年後、私が両親に送り出されたときのことはよく覚えている。私が出発する前の週末休みの日に父親から「ちょっと着替えて外出てみんさいや」と言われ、自宅をバックに写真を数枚撮られた。母親は「広島におりゃあえーのに。なんでそげに遠くまでいくんかのお」と言って、残された短い共同生活を惜しんだ。10代というのは本当に無謀だと思う。あれほど家族に頼り切った生活をしてきたのに、いざ単身生活をすると決めてしまうと踏み出せてしまう。そこには大きなギャップがあり、ほとんどの後ろ盾を失ってしまうのに、できる、できない、という可能性の話でなく、俺もう大人だし、という謎の自信が上回ってしまう。

独りぼっちになる私を迎えたのは高野川沿いに咲き乱れる桜だった。

私はこの町で、ひとりで生きていくんだ。

美しい薄桃色に視線を奪われつつ、私は心の中でそう理解した。

もちろん単身生活とはいえ、親の庇護のもとにそれからの私の4年間はあった訳で、よく電話もしたし、青春18きっぷを使ってはるばる郷里へ帰ったりもした。

そして今、両親はまだまだ健在だ。とてもありがたいことだ。

今、妻とともに我が子を案じる自分がいる。過剰の期待をせず、でもなんとかこの苦しい時代を強くなくてもいい、生きていってほしいと暖かく見守る人生の旬を通り越した私達。それは我が子から私達が生きるエネルギーをもらっているからであると分析することもできる。私が世の理不尽の中でも働き続けることができるのは家族の笑顔を見続けていたいという自分自身のわがままでもある。心が折れそうなときも朝自宅の扉を開け、電車に乗り込む。勤務先の最寄り駅が近づいてくると今日一日無事に過ごせるかが不安なときだってもちろんある。なんとか仕事を終えて、地下鉄に乗り込み、終着駅で降りては人ごみとともに歩き、家路を急ぐ毎日の暮らし。それもこれも全部、他愛もないことで笑い合える日常がある我が家を愛しているから。毎週末とはいかずとも月に1回くらいは家族で食事をし、数か月や半年に一度くらいは家族で旅行をし、ちょっとした非日常をこのいつものメンバーで楽しむ幸せ。

結局気づくことと言えば私は家族に生かし生かされ、そしてそれは私の両親も同様であったのではないかということ。

私の一挙手一投足が両親を喜ばせ、時には悲しませ、でもそれが親という役回りを通じて両親が両親なりの人生を彩ってきたということなのではなかろうか。そして今も彼らの親業は続いている。私が彼らの子であり続けるからだ。

そう考えたときに、やはり私という存在がこの世に誕生したときに一番喜んでくれたのは両親なのではないかと思うのだ。どんなダメ息子であったとしても、やはりそれが父親、母親の人生を形作る重要なパーツであり続けると思うのだ。

これからも私はダメ息子のままかもしれない。でも今、自分の子供たちに決して多くを望まないように、私の両親も私に対して決して多くを望んではいないだろう。ただ普通に人として生き、もう十分に年齢を重ねたのだから間違ったことはせず、人として当たり前に生き、当たり前に死んでいきなさい。でも私達よりは先に逝くなよ。そんな風に思っているのではないかと勝手に推測してみる。

人の一生というのが単なる繰り返しであったとしても、このバトンを繋ぎ続けること自体に意味があると思ってしまう。命のリレー。私は両親から受け取ったこのバトンを自分の子供たちに繋いでいく。

こんな私でもこの世に生まれ落ちた瞬間から既に二人の役に立っているはずだとそう信じたい。そしてその役割をまっとうしなければならない。そのプレッシャーを感じるほどはもう若くはない。きっとうまくいくはずだ。私があるから両親の人生は輝いている。臆面もなくそう断言したい。

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