人生いろいろ⑥

前回は「直テレカ」というニンジンの効用について書きました。
単細胞生物というのは時に得をします。私もトシを重ねるたびにヘンクツになってきて、損な性格になったなぁなどと思うことがあります。二十歳前後の精神的にピュアな頃というのは今とは違ったスポンジのような吸収力がありますね。

それで、初テレカのあとはその常連になったと書きましたが、もう成績は最後まで落ちることはありませんでした。最後のセンター模試が総受験者数10万人で10位。●大模試でも学科別全国1位を取っていましたから、浪人生活が始まった頃にはどうなることやら、というスタートでしたが、よほど気を抜かない限りは大丈夫という状況になってきました。まさにニンジン効果。K塾おそるべし(笑)。

そんな中、小論文もぼちぼち書いては添削していただき、なんだかんだで例のチューターさんとも顔見知りになって1週間に1回くらい短時間ですが雑談しにお邪魔するようになりました。数ヶ月前までは、校内に友達と呼べる人がほとんどいないという惨憺たる状況だった人間がこうも変わるわけですから人生わからないものでです。笑顔も随分増えましたし、自分にも自信を持つことができました。受験前はそのチューターさんから、ちゃっかり応援メッセージも書いていただきましたし。今でも宝物、って、どこへしまってあるんだったっけ(汗......)。

とはいえ、やはり大学受験生ですからそれなりに犠牲にするものは出てきます。例えば広島市では19歳で成人式を迎えるのですが、成人の日には普通に自転車で予備校に通っていました。道すがら和装の女性を見て「彼女、同い年か......」などと思ったものです。この手の話は他にもまだありますが、どうも私は記念日というものに恵まれていないような気がします。あ、そうでもないかな?

まあ、この辺のことをダラダラと書いても仕方がないので受験の局面に展開を変えますが、センター試験。当時、私の武器は英語とマークシート、という今だったら「ダメ人間」のレッテルを貼られそうな感じですが、当時はこれで通用したのですから仕方がないですよね。模擬試験で800点中760点程度をコンスタントにたたき出していたので、ここで圧倒的リードをつけて逃げ切ることを考えていたのですが、まあ何といいますか実力不足。自己採点で720点くらいでしたでしょうか。後に考えるとそこまで悲観することはなかったのですが、「落ちた......」と思いました。現役時は確か700点に届くか届かない程度でギリギリ不合格だったので一年前からすると大きく前進しているのは間違いないのですが、とにかく顔面蒼白になりました。浪人生というのはそういう無用なプレッシャーを抱えているものなのです。世の親御さん達にはその辺をわかっていただきたいです。本当に不安なんですよね、誰も二浪なんてしたくないですし、そもそも浪人なんて私の場合は良い方向に転じましたが、普通は避けて通りたいものですから。こういった経験は親としての子供達への受験指導にも繋がっています。自分の子供たちが羨ましい(笑?)。

試験後迷わず、チューター室へ向かいました。

「●●さん、失敗した......」と言うと「hello!君なら大丈夫だよ」の一言。救われましたねー。何をもって大丈夫なのか全然訳がわかりませんが、まあ大丈夫なんだろうな、と気を取り直しました。いやはや単細胞生物の真骨頂発揮(笑)。

その後、併願していた私立K大学(当時は創設されたばかりで無名?でしたが、今は超大人気の学部・学科です)の入試があったのですが、これは英語と小論文だけというまさに私の十八番。同校の二学部に楽勝で合格しました。私にとっては通過点でしかない、と言いますか、まあ最悪ここだったら投資する価値があるかな、という感じだったので、本番はまだまだ先です。父親は大喜びして入学金●●万円を振り込んでくれましたが。ありがとうございます。しかしボロ儲けやな、私立大学の入学金商法。。。

で、本番まで書いちゃいますか。当然センター試験の結果で足切りなどにはならなかった私ですが本番では大苦戦。「この大学の入学試験ってこんなに難しかった・・・」と問題・回答用紙に向き合いながら滝汗状態。英語以外は本当に手応えがなかったですね。比較的得意だった化学も途中から????状態でしたし、物理なんか「宇宙人しか、こんなん解けんやろ」という感じでした。

「あー、また落ちたぁ」

そう確信して広島に帰ると、相当弱気になりました。高校一年生のときからその大学の学部・学科を第一志望から一度も外したことがなかったにも関わらず、後期日程では別の大学に変更しようかどうしようか真剣に悩みました。というのも、私の志望学科は現役生のときは「前期25人・後期20人」という定員枠だったのですが、浪人時は「前期40・後期5人」というあり得ない変更があったのです。

「5人の中の1人に入れる確率って。。。」

本当に悩みに悩んだ末に父親に受験校の変更を申し出ると、予備校に行く・行かないのとき以外に意見しなかった父が初めて怒りをあらわにしました。
「私はお前が●●大学に受験するというから今までカネを出してきたんだ!」
いやあすごい剣幕でしたが、後期日程の受験校は変えました(笑)。だってリスクが高すぎるんだもん。。ただ、こちらの大学の受験対策をまったくしてなかったのです。模擬試験の判定だけで、「こっちなら大丈夫」とタカをくくっていましたが、いざ過去問をやってみたら全然解けない。。これには相当焦りましたね。いやあ、こういう優柔不断な人間が二浪・三浪するのかぁ、と随分落ち込みました。(まあ、某私大には合格していたのですが。ただ、ここに進学していたら我が家の経済状況は大変なことになっていたでしょうね。。)

そんな中、運命の合格発表。名前が、、、あった!!!

いやあ、今でも本当に英語の一芸入試だったのではないかと笑ってしまうような顛末でした。まあ、受かってしまえばこっちのもの。一緒に大学まで発表を見に行った父も大喜びでした。まあ、いろんな意味で家庭的にも大成功だったんです。私が浪人していないと、姉の大学在学期間と私とで二年かぶってしまうので家計は結構キツキツ。そんな中、私が無償で予備校通い。当時はベビーブームで「浪人も仕方ないね」という空気が漂う中、我が家的にはオールオッケイというのが実際のところだったのでしょう。一連の手続きを終え、合格のご報告と御礼です。真っ先に足が向いたのが、そう、あの方です。

(続く)


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