「娑婆に出る」vol.1
自分の過去についてすべてを書き尽くすのは難しいですし、これは「自伝」ではないので、学生時代のことは前回まで、ということにしまして社会人になる辺りのことを書きましょうか。
noteのタイトルも「娑婆に出る」に変えてみました。本当は大学進学の辺りがまさにそういう心境だったのですが(笑)。
前に少し触れましたが大学四回生の春先には、「学部卒で就職、社会に出て一発逆転!」というシナリオを決めていました。その後、修士卒の方々に次々と志望企業を奪われてしまったので、必然的に残るは「二枠」という状況(残っていて本当にラッキーでした)。
もはや、私は「どちらでもいい」という心境。そんな中、同じく就職するという同期が「俺はこっちじゃなきゃイヤだ」というので、「別にいいよ」と消去法的(?)に私の選択肢が決まりました。第一志望群を逃した今、「決め手」というものはもはやないと思ったので。
おそらく時系列的に前後していないと思うのですが、その後早々に同社の説明会に出向きました。どういう経路で同社に辿り着いたのか、とか、いくぶん緊張したのか、といった記憶はまったくありません。会場で一通りの説明を受けて「会社案内を読んだとおりだな」という印象を受けたのと「それ以上のことはわからなかったな」という感想でした。ですので、まあせっかく京都からはるばる上京してきた訳ですし、そう何度も通える訳でもないので、人事の方にダメモトでお願いしてみました。何をかというと、会社案内の最初のページに紹介されていたNさんという方が私とまったく同じ大学の学部・学科、そして同じく大学院を出ず、同社に就職後、技術開発一筋という同社のエースだったのです。年齢でいえばざっと私の十五期程度上という感じだったでしょうか? 後に聞いた話ではその間私の卒業校から同社に入社した人はひとりもいなかったんだそうです。私の入社以降は毎年コンスタントに1名ずつ入社していくことになるのですが。(実際、「hello!さんが在籍していたから大丈夫だと思って入社した」という後輩も後に現れました。あんまり先輩を買いかぶりなさんな、笑)
それはそれとして、「このNさんに今お会いできませんでしょうか?」と説明会の片づけをしていた人事の方にお尋ねすると、「ちょっとロビーで待っていてください」と人事の方があたふたし始めました。
「まあ、そもそも会社にいないかもしれないし、無理だろうなぁ」と思っていたら、15分後くらいでしょうか、「こんにちは!」と会社案内で見た顔をした方が笑顔で歩いていらっしゃいました。
私も学生時代いろいろ経験してきた訳だし、それに単に年の離れた大学の先輩じゃないか、などと自分に言い聞かせるのですが、やはり社会の第一線で活躍されている方とサシで話すというのは当時はそれなりに度胸のいることでして。Nさんの自信に満ち溢れた表情と人を安心にさせる笑顔に圧倒されました。
そして何よりも技術や会社に対する熱い思い。そもそも大学で学んでいたのが「環境リスク工学」なので、プラントエンジニアリングというものがどういうものなのか正直なところイメージができていなかったのです。それがお話を伺って、「これは相当エキサイティングな業界だぞ」ということがヒシヒシと伝わってきました。そして、同社が当時「売り」にしていたある技術。相当にエッジの利いた技術で、これができる会社は(知財の関係もあり)世界でここだけだったのですが、「この技術で世界を取りに行く!」というambition(大志!)。
東証一部上場とはいえ当業界の中堅企業に入ることになる(がそれでOK)と心の整理をしていた私は「これはとんだ失礼をば......。」という感じでNさんの説明に熱心に聞き入り、必死でメモを取っていました。
都合1時間くらいでしょうか、お忙しかったでしょうに、急な呼び出しにも関わらず夕刻に結構な時間を割いていただきました。
帰りの新幹線では、人事の方を中心にご説明いただいた内容はまったくといっていいほど振り返らなかったですね。Nさんの話を暗唱するほど思い出しては、「(学生という気楽な身分を捨て、)社会に出るということはとんでもないことだぞ!」(相当エキサイティングという意味で)と認識を新たにしました。そしてここなら「一発逆転」が十二分にあり得る、と勝手に盛り上がっていました。そしてこの直感は見事に当たることになります。
私も人のことはあまりとやかく言えないのですが、この業界に近い私と同じ学科の学生でさえ、「あの会社はあまりイケてない」という印象だったのではないかと思います。Nさんが入社以来15年間も入社した卒業生がいなかった訳ですから。この辺、もし私に適性があったとするならば、私が広島の米農家のせがれだったということもあるかもしれません。我が家は祖父の代までは専業農家だったのです。そんな中、父が両親にどう説明したのか知りませんが、家業である米づくりを継がず、地銀でサラリーマンとしての道を歩みました。そのおかげもあって私も自由な職業選択をすることができたという経緯があります。
ですので、私たち広島の片田舎の人間からすると、「東京で会社勤めする」と言うこと自体、「そりゃあ、すごいのぉ。ホンマに大丈夫なんかいの?」という感じなのです。
最後に残っていた二社のうちのもう一社のほうが、そうですね、エレガント(?)という印象だったかもしれません。この企業には大学のOB・OGもそれなりに入社していましたし。ただ、私の選択・判断の基準は「洗練されている」、「おしゃれ」といったものではなかった訳です。そもそも情報工学から衛生工学に転じた時点から「将来は泥にまみれて」と思っていましたし、大学時代も土ばっか掘ってはせっせと運んでいましたから(笑、土壌汚染の研究をしていました)、社会に出るにあたり表面的に「飾る」つもりはまるでなかったのです。
という訳で、きちんと腹落ちして臨んだ入社試験、面接も無事クリアし、内定→承諾と恙なく進みました。
なお、もう1社のほうを選んだ彼は大学の推薦をもらったにも関わらず選考漏れした挙句、行き場がなくなり大学院に拾われるという格好になりました。という訳で、この年度の当学科からの同社への入社者はゼロです。この辺についてその後ネタには時折り使いましたが(笑)、私は(迷いなく)あちらの会社に行くと決めていましたし、同じレベルの情報を得たうえで比較評価するのは事実上無理でしたが、自分の判断に間違いはないという確信めいたものがありました。という訳で何の遺恨も残さず、最後の半年は卒業研究とスケートに専念しました。
こうして春を迎え、松葉杖をついた青二才は同社の独身寮が当時あったJR京葉線の最寄り駅に降り立ちます。ロータリーで待っていると強面の寮長さんが骨折特別サービス(笑)で車を回してくださいました。
いよいよ社会人生活の始まりです!
今回はこの辺まで。いやー、また長くなりそうですね(苦笑......)。
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