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無意味な行為ほど心に優しい(エッセイ)


1年ほど前

クライミング指導の仕事で、ある施設に行った。
講師同士の雑談の中で誰かが「どうして俺たちは何十年も岩なんか登ってんだろうな」と言い出した。皆冗談を交えて「頭のネジが飛んでいる」「そもそもへんな人種なんだ」と盛り上がった。

私は考えた。結局、我々が十年ないし何十年も岩を登っていられるのは、それ自体がそもそも社会的に有益な意味を持たないからだと思う。
社会的に有益というのは、つまりお金と価値である。

今まで趣味でやっていた時は楽しくできたが、仕事になったら急につまらなくなったという話を時々聞く。仕事にしたことにより、お金と価値を手に入れると、行為に意味が生まれる。意味が1つ生まれると次の意味を探す。


クライミングを例にする

趣味の場合「もっと上達したい」という欲求はそれ以上に意味はなく、本能的な渇望に近い。

ただし、仕事になると同じ「もっと上達したい」でも「上達すれば教えられる幅が広がる」それにより「顧客を増やせる」それにより「収益を上げることができる」それにより「欲しいものが買える」それにより、、、。という具合に鎖状に意味が増加していく。

ビジネスにおいてこの連続性はとても大切なことだが、こういう連続性は満足と不満を大きな振り幅で上下させる。
新しい用具や技術を得ることが出来た、という満足があり、これでもっと稼げる、という期待が生まれ、思ったほど収益につながらなかった、という結果に不満を感じ、さらに新たな用具と技術を求める。仮に望んだ収益があったとしても、時間と共に慣れて不満へと変わり、更なる利益を求めて終わりのない満足というゴールへ向かって繰り返すだろう。


心の疲弊は

この上下の振り幅が大きければ大きいほど強い。
厄介なことに、この手のストレスは「私の努力が足りないのだ」「もっと頑張れる」など、精神論への転換が容易な為、気付きにくい。

心が疲弊すると、自分を取り巻く世界が歪んで見える。それはやがて体の不調となって生活の質を落としていくだろう。

心を落ち着かせるために自然の中に身を置くのではない。
意味を求めず自然の中に身を置くから心が落ち着くのだ。

クライミングも同じだ。登りたいと思ったから登る。それに特別な意味などない。
故に登り切った時の気持ちは晴れやかなのだ。

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