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夏休みの湯船

私の夏休みが終わろうとしている。今年は曜日の兼ね合いで、10月になっても夏休みは息をしている。
バイト先の店にはさつま芋や栗、かぼちゃといったいかにも秋といった商品が並ぶようになり、就職活動で訪れた企業ではクールビズ期間が終わっている。でも私は夏休みだ。

社会人にもなれば、夏休みというのは9月はおろか、8月の半ばで終わってしまう。始まりも、早くても8月の前半だというのに。
こんな夏休みは、あと1回だ。
多分そこらから、「あと1回あるじゃないか」とツッコミが飛んできそうだ。その通りだ。そもそも、私の人生においてこんな夏休みは全4回の短編なのである。合計8ヶ月もあるのに何を偉そうに。

旅行者であるところの私にとって、青春18きっぷ期間が終わってからの20日間は複雑な気分だ。夏の盛りは終わったぞ、と冷たい目を向けられているようで。2020年9月の末、GoToトラベルに乗じて訪れた福岡で、吹く風に「寒い」という感情を覚えたことに、自らがあまりにも自由な身分であることを感じたのが懐かしい。
今年の9月半ば以降は、遠出に疲れ、オンライン化した予定に追われ、家に籠るばかりの日々を送っていた。

2ヶ月という期間は実に恨めしい。人が何かを習慣にするには、3週間の継続が必要だという。2ヶ月といえば約8週間、その倍を更に超える期間がある。この期間に怠惰を習慣にするのは大変容易なことであり、そしてその習慣を変えるには授業が始まって3週間、すなわち授業期間(15週)の2割にあたる時間、加えて多大な努力が必要になる。

そんな夏休みの終わりを前にして、愉快でいられるわけもない。私はシャワーを浴びようとして、夏休みの汚れを落とそうとして、その時偶々、横にある白い空間に目を向けた。
ふと湯を入れてみようと思い立ち、いつもは身体にかけるべきシャワーの湯を、栓をしたその空間に注ぐ。みるみるうちに水で満たされる。湯気が立ち上る。さながら温泉のようだった。9月上旬に行った札幌郊外のスーパー銭湯を思い出す。私は湯に浸かり、思索に耽る。

熱い。暑い。シャワー用に調整した湯をそのままの温度で使っているからだろうか。汗をかく。
京都の夏は暑い。最高気温が37度に上る中、鴨川で遊ぶ子供達を横目に試験勉強に向かった夏の日を思い出す。
汗を拭くためバスタオルに手を伸ばす。少し開けた扉から差し込む冷気は、腹痛でトイレに籠った夏の日を思い出す。缶詰と化したトイレを脱し、冷房の効いた居室に戻った時のあの涼しさ。いや、もう少しマシな記憶もあったのではないか?

目が疲れた気がした。扉を開けたところにあったタオルを取り、温めて目を休める。ラジオを流せば雰囲気は完璧だ。暗い視界に、夏の思い出が蘇る。
天気予報が終わる頃、私はタオルの温もりが無くなっていくのを感じ、タオルを横へ置いた。浴室の明るさに驚く目を宥めながら、思索の続きへと入り込む。

このまま夏を回想すれば、何か湧き出るような感情があったかもしれないが、現実はそうもいかない。

ふと目を落とすと、水に浮く無数の物体。長らく使っていなかったこの空間に、そのまま栓をして湯を湛えさせたものだから、底に棲んでいた埃という埃が、来客である私に丁寧に挨拶にやってきた。
私は元から隣人ですから、お手柔らかに願います。

私はそこで湯から出た。いつものように頭や身体を洗い、そして最後に、栓を抜く。

水が抜けていく。浮かんでいた埃も流れていく。後にはただ、昨日までと変わらない、何もない白い空間が残っている。

付けたままにしていたラジオが、夏休みの終わりを知らせてきた。

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